呉ノ朱

小説一覧 作品紹介 よくあるご質問 他サイトへのリンク 御感想はこちらへ 文字サイズ 大 中 小



 
  五.  

この小説に関連するシリーズ
人物紹介・作品解説へ
 
九雀の囚人となって、初めての朝だった。
昨夜九雀は、あれから自分の服を、まず着替えさせた。
九雀の寝起きしていた布団に横たえられ、両手は自由にされたが、両足は、小さな南京錠のついた枷をはめられ、そしてその先から伸びる鎖で柱へと繋がれていた。そこにも、鍵がつけられた。
この厚い牛皮は、ハサミも通らないだろう。鎖もまた、ペンチで千切ることも難しいに違いない。
九雀の寝間着らしい浴衣のようなものに着替える。下着は、ショーツだけだった。浴衣は随分大きいものだったし、まだ指はかたかたと震えていたので着替えに時間がかかったが、その間九雀はじっと、須磨子の一挙一動を見つめていた。
そうして着替えが終わると、九雀はおやすみ、とだけ言って、須磨子に布団をかけた。自分は本棚で仕切られたすぐ隣の書斎へと戻っていく。
須磨子には、わけがわからなかった。
繋がれ、犯されるのだと思っていた。……あの、人形のように。

――そうしていつしか眠り、いま目覚めてみても、夢ではない。


自分の足は確かにまだ鎖によって縛られていたし、身体を起こして隣の書斎を覗いてみれば、そこには九雀がいた。
「……おはよう」
九雀は、一睡もしていないようだった。須磨子を見て、少し青白くなった顔で淡く微笑う。須磨子はその笑顔に、笑い返すことができなかった。
「怒って、いるのでしょうね」
九雀が悲しそうに目を細めた。須磨子は自分が怒っているのか、それとも恐怖しているのか、よくわからない。
「あの部屋は……」
「うん?」
ぽつりと、口を開く。九雀がこちらに近づいた。
「あの部屋は、確かに恐ろしかった、です。……それにこうして監禁されるのも……どうしてだか、わかりません」
「……うん」
隣で座ったまま、静かに自分を見ている九雀は、到底狂人には見えない。
穏やかに頷いて、自分の言葉をきちんと聞いてくれている。
須磨子は少し安堵した。
「私は……お姉さんとは違います。九雀さんを置いていなくなったりは、しません」
「そう……だろうか」
九雀の表情が曇った。細い目が切なげにいっそう細められる。
「あなたは、昨日あの部屋を見て、僕の気が違っているのではないかと思ったろう?あの時こうしなければ、きっとあのまま、この家を飛び出して……二度とは戻ってこなかった筈だ」
須磨子は言葉に詰まる。確かにその通りだろう。
九雀は須磨子の表情に、一度きつく、目を閉じた。
「こんな仕打ちをして、解ってほしいと言うのは酷だろうけれど、でも」
九雀が手をすっと須磨子に伸ばした。
須磨子は思わず、びくりと身体を震わせた。震わせてしまった。
九雀の瞳が、いっそう悲しい色を映して、手が降ろされる。
「……すまない」
そう短く言って、九雀は背を向けた。
その背があまりにも寂しげで、須磨子の胸が、じくじくと痛んだ。


耳には、さらさらと紙の上を滑る、九雀の万年筆の音が聞こえてきている。
須磨子は幾度か、身体を動かして、九雀に小さく声をかける。
「九雀さん、……その、トイレに……」
「あ、ああ」
九雀が一度目を見開いて、さて弱った、と、呟く。
須磨子はその言葉に驚いた。
この男は、あまりにも正常だ。少しも狂ってなどいない。今の九雀の言葉で、そう確信したのだった。
「考えてなかったんですか、そういうこと」
「すまない。焦って、いたんだ」
ぼりぼりと頭を掻きながら、文机から南京錠のものらしき小さな鍵を出して、柱のそれを外す。そうして須磨子の身体の下に手を差し入れた。今度は、身体はもう九雀の手を拒まなかった。
トイレは、一人で入ることを許された。勿論音が聞こえているだろうという恥じらいはあったが、こればかりは仕方がなかった。
これからは、行動が制限されるだろう。九雀が執筆する時は自分も隣にいなければならないし、何もかもを九雀の見える位 置ですまさなければならない。
そのことに、抵抗がないといえば嘘になる。
だがまずは、九雀の不安を取り除き、この鎖を外してもらわなくてはならない。
――自分は、決していなくなったりは、しないのだと。

トイレから戻り、また同じように鎖で繋がれると、九雀は座卓へ戻ろうとした。須磨子はその背に声をかける。
「ひとつだけ、我が儘を言ってもいいですか?」
「我が儘?」
九雀の声は綻んでいた。もう須磨子と普通に会話をできないとでも思っていたように。須磨子は頷く。
「ここにこうして繋がれることを受け入れますから、その代わり、九雀さんが一枚書き上げるごとに、それを私に読ませてください」
「僕の……小説を?」
思いがけない言葉だったに違いない。九雀は少し押し黙り、そして頷いた。
「ほんとうにあなたは、変わっている」
「だって、元々九雀さんのファンですから」
苦笑した九雀につられるように、須磨子も微笑んだ。そして、いうなれば監禁されているにも拘わらず、こんなにも穏やかに笑うことができる自分自身に驚いていた。

九雀が書き上げるまでの間、須磨子は枕元に九雀が用意してくれた他の作家の小説や、文藝雑誌に手を伸ばしたりはしたが、しばらくしてそれをやめた。
机と紙、そして万年筆が静かな部屋に響かせる音を聞いていたかったからだ。
目線の先には、原稿用紙に向かう九雀の姿が見える。真剣な瞳だった。時にそれが緩んだり鋭くなったりしながら、九雀の手が絶えず動かされてゆく。
そうして、万年筆が置かれる。すっと片手で、原稿用紙が手渡された。
「まず、一枚目」
九雀は一度じ、と須磨子の目を見、そしてまたすぐに座卓へと戻した。
須磨子の手の中に、九雀のクセのある字で綴られた、新しい物語がある。
題名は「からたちの籠」
――冒頭は、猫が恋い焦がれていた鳥を攫い、からたちの枝で編んだ鳥籠の中で飼うという場面 から始まっていた。
須磨子は息を呑んだ。その鳥の描写は須磨子そのものであったからだ。
そして自分もいま、九雀の手によってこの部屋で飼われている。
須磨子は一枚目の最後まで読んで、そして九雀の横顔を見つめた。
そこからは、何の感情も読みとることができない。
す、と原稿用紙を畳に置く。続きが気になった。九雀は、どんな物語を描くつもりなのだろうか、と。
そうしているうちに、二枚目が渡される。それは日が落ち、文字が読みづらくなるまで繰り返された。

「……ふう」
すっかり文字が読めなくなってしまうと、九雀は立ち上がり、部屋の灯りをつけた。そうして一度、座ったまま伸びをする。
九雀が書いた枚数は、10枚。鳥が自分が監禁されていることに気づき、恐怖する場面で終わっていた。
「食事にしましょうか」
「私……作ります」
立ち上がった九雀に須磨子はそう言ったが、九雀は首を振った。
「いままでのように弁当を用意させるから。あなたの料理が食べられないのは残念だが……致し方ないでしょう」
そう言って、電話口へと向かった。須磨子は小さく溜息を吐いた。
拘束されているのは足だけだったので、一日中寝たきりだということはなかったが、それでも、身体は汗をかいてなんだかべたべたとしているようで不快だ。
この調子では、風呂に入ることも叶わないかもしれない。
そう思い、戻ってきた九雀にそう告げると、やはり九雀は、入浴を認めてはくれなかった。――だが。
「これで、辛抱してほしい」
九雀の手には、蒸されたタオルが握られていた。須磨子がそれを受け取ろうとすると、九雀は予想に反し、須磨子の身体を背後から抱きかかえるようにした。
肩から浴衣が外される。須磨子は緊張からか羞恥からか、鼓動が早鳴った。
「熱く……ないですか」
「いえ」
首もとに、少し熱めの濡れたタオルがあてられたが、それは心地よかった。九雀はまず背中を丁寧に拭う。もう片方の肩も落とされ、上半身が露わになった。
背後で、九雀が唾液を嚥下したのがわかる。
須磨子は思わず、胸元を隠していた。
肩口から、九雀の手が伸びる。まず鎖骨、そして胸骨。そのまま乳房へと滑らされる。
「んっ……」
須磨子の口から、吐息が漏れた。ふくらみを沿い、もう片方へ。
背後の九雀は、どんな顔をしているだろう。
「冷たくなってしまいましたね」
だが九雀は立ち上がると、台所の方へと向かった。しばらくして、また暖かいタオルを握って九雀があらわれたのを、須磨子は背中越しに音だけで知る。
「失礼……」
上半身の浴衣を元に戻すと、須磨子の身体をそっと布団に横たえて、九雀は浴衣の裾をめくった。ぴくりと須磨子の身体が震えたが、それには躊躇せずに。
すっと、太腿に再び暖かくなったタオルがあてられる。優しく撫でるように、肌が拭われていく。
「……っ」
決して性感を感じるようなことではないはずなのに、須磨子の身体は熱くなっていた。九雀の視線のせいだ。ちら、と見た九雀の瞳は、雄の色を確かに映して、けれど須磨子の身体を拭い続けている。
太腿から、脛へ。そして指先へとタオルが滑り、その度に須磨子の息が小さく漏れた。九雀は、一度も自分の指で、須磨子には触れなかった。
最後に九雀が身体を起こした時、須磨子は思わず、自分でも思いがけないことを口にしていた。
「どうして、私を抱かないんですか……?」
須磨子は小さな声で、九雀に問いかける。自分を見下ろす九雀の視線が困惑していた。
これではまるで、抱いてほしいといわんばかりの言葉ではないか、と、須磨子の中で誰かが戒める。けれど純粋に須磨子は不思議でならなかった。
九雀はきゅっと、一度唇を噛みしめてから、恐れるように口を開く。
「……僕は只でさえあなたから、利己的に自由を奪っている。このうえあなたを抱いてしまったら……それはまるで陵辱だ」
俯いて、九雀は眉を顰めた。須磨子はその言葉に、じんわりと胸が痛む。
――このひとは、とても正常で、そして、とても純粋だ。
須磨子が頷くと、九雀は再び背を向けて、台所へと消えた。
九雀が丁寧に拭っていった身体からは、汗の不快感は消えていたが、その変わりに身体の芯に熱が残っている。
それはなかなか、消えてはくれなかった。

無言のままに簡単な食事を済ませると、九雀は一本の煙草を吸い、そして再びペンを走らせはじめた。
すっと続きが渡される。そこには、鳥を監禁するに至った猫の苦悩と葛藤が、書かれていた。

――猫は、鳥の羽をもいでしまおうかと悩む。羽をもいでしまえば、鳥は鳥籠を開けても自分から逃げることは叶わない。けれど。

羽をもぐ。九雀の独特の文体と表現で婉曲して書かれていたが、これはきっと、九雀自身の葛藤だ。彼は、自分を犯してしまいたいという欲望を抱えている。
須磨子は続きを待った。九雀の言葉を、待った。
一枚一枚綴られ、渡される原稿は、まるで手紙のようだった。
話は進んでゆく。要約すると、こうだ。

――猫にはひとつの願いがあった。いつも窓の外で美しい声で唄っていたその鳥が、自分のためだけに唄ってはくれないだろうか、という願い。けれどもし羽を潰してしまえば、鳥は決して自分を許しはしないだろう。ただでさえ自分を狭く棘のついたからたちの枝で出来たこの籠に閉じこめているというのに。

……唄う。須磨子は首をかしげた。九雀にとって、須磨子の歌声とはなにを意味しているのだろう。わからない。
だが、九雀の筆は、思うように進まないようだった。
窓の外は、もうすっかりと暗い。
須磨子は自分の意識が、とろとろと落ちてゆくのを感じていた。起きて、九雀の小説を待ちたい気持ちが強くあるのに、けれどそれに逆らうことはできなかった。

その夜は、寝苦しかった。気温がいつもより高かったのかもしれない。
ふと息苦しさを感じて、うっすらと目を開ける。
唇を、何かが撫でているような感触があった。ゆっくりと、愛おしそうに。薄く見て、それは九雀の指なのだと気づき、また目を閉じる。
なんとなく、自分が起きているのだと気づかれたくはなかった。
指はあまりにも優しかった。頬を撫で、包む。そしてためらったように離され、また撫でられる。
そのまま髪へ。ゆっくりと、髪を大きな手が撫でてゆく。
隣で衣擦れの音がした。体温が、近づいてくるのがわかる。
薄い唇が触れたのは、瞼だった。そっと、恐れるようにそれは触れた。
そうして頬へ。押しつけられるように、ごくごく優しく。
次に、唇に、瞬間触れた。須磨子はじんわりと、その柔らかさを感じていた。
九雀の唇が、自分の唇を柔らかく包む。舌が下唇をなぞった。そしてそっと吸われる。ぴくりと、自分の指が反応したが、九雀はそれに気づかないようだった。
耳には、九雀の静かな呼吸と、窓の外の虫の声だけがしんしんと聞こえてくる。
しばらく唇が合わせられたのち、またそっと、離れた。
そうして、頭を抱きかかえられる。くっと、隣に横たわった九雀の肩口に押しつけられた。
須磨子は胸が痛かった。くっと締め上げられるように、身体に伝わってくる九雀の体温が切なくて、九雀が身体を起こし、座卓の方へ去っても尚、その切なさは続いていた。なんだか泣いてしまいそうだった。

前頁へ 次頁へ
  このページのトップへ
小説一覧へ
   
     
サイトマップ サイト概要 お問い合わせ  
Copyright(c)2004 - Kurenoaka. All Rights Reserved.