呉ノ朱

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  二.  

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須磨子がこの家に来てから、一週間が経った。
九雀は最初の言葉通り、滅多に部屋からは出てこなかったが、この一週間、須磨子にとっては家中をピカピカにするという自分に課された指命に燃えていたので、さほど気にならなかった。
お化け屋敷と称されるほど古い家だったが、丁寧に磨き上げれば、使い込まれた床や家具は見違えるほど生き生きと輝きだしたし、すりガラスの窓を拭いてカーテンを総て洗濯すると、あれ程暗かった1階も随分と明るくなった。
「これは……凄いな」
「あ、九雀さん」
腰に手をあてて、自分の仕事ぶりを自画自賛していた須磨子の背後に、九雀が立っていた。ぐるりと見渡して、顎の無精髭を撫でる。
「これじゃ、僕が歩いただけでまた汚しそうだ」
「そんなこと……」
苦笑して須磨子は九雀を振り返ったが、それ以上言葉を続けられなかった。
一週間前、須磨子がこの家に来た時から九雀の服装は何一つ変わっていない。髭はいっそう伸びていたし、風呂にも入った形跡はなかった。
「……風呂に入ってきます。ついでに散髪も……」
九雀は困ったように咳払いして、風呂場に向かう。須磨子は慌ててその背に声をかけた。
「散髪、自分でなさるんですか?」
「はい。身なりにはこだわらないのだけれど、さすがに最近原稿も見えなくなってきたから」
こだわらなすぎだ。須磨子は少しためらって、続けた。
「あの、宜しければ私がお切りしましょうか?」
「あなたが?……じゃあ……風呂に入ってきます」
「はい」
須磨子は頷いて見送ると、食事用に使っている椅子をリビングの窓から庭に出す。庭はうっすらと芝生が張られ、高い塀で囲まれている小さなものだった。花壇なども何もなく、色褪せた物干し台があるだけだ。
――髪を切るならば、外の方がいい。
今日は天気もいいのだし、暖かくて丁度いいだろう。
ハサミを用意して、その椅子に座って九雀を待った。
程なくして風呂場から音がして九雀があらわれた。下はやはり裾足らずのズボンに、上はタオルを肩からかけているだけだ。ドキリと須磨子の胸が鳴る。
「こんな格好で、悪いと思ったんだけど……」
九雀は困ったように肩にかけたタオルで頭をガシガシと掻きむしるように拭きながら、須磨子を見た。そして立った須磨子と交代に、庭の椅子に座る。
「太陽の下なんて、何年ぶりだろう」
眩しそうに目を細めた。陽の光の下で見ると、九雀は肌が随分と白かった。だが決して病弱に見えないのは、その体躯のせいなのだろう。
須磨子は裸の胸にドキリとしながら、九雀の背後に回る。
「そんなに、上手ではないと思うのですけれど」
「いや、いいよ。なにしろいつもこんな格好だから。適当に切ってください」
須磨子ははい、と言って、九雀の髪を握った。湿り気の残る、くるくるとパーマがかかったような柔らかい髪質。きっとくせっ毛なのだろう。
それをハサミで挟んで、シャキ、と切る。
散髪をするのは初めてではなかった。父親がまだ生きていた頃、日曜にこうしてベランダで父の髪を切るのは、いつも自分の大切な仕事だったから。
「九雀さんは、ずっとこの家におひとりで?」
須磨子は無言の間が怖くて、他愛もない話を始める。
――九雀のことをもっと知りたい。
その興味は、作家としての九雀ではなく目の前にいるこの男への興味だった。
「そうだな、元々祖父の持ち物だったこの家を、遺産代わりに引き受けて……もう10年になるだろうか」
須磨子は少しほっとした。家の様子から、とても恋人や配偶者がいるようには見えなかったが、改めてそう聞くとなんだか心が躍る。
「初めは……姉と住む予定だったのだけれど、姉が亡くなって」
「お姉さんが……。それって……もしかして」
須磨子はハサミを動かしながら、自分の記憶を辿る。数年前に出版された九雀の小説、たった一作だけ、他のものとあまりにも違う作風のものがあった。
「さすがは読者さん。あれを書いたのは、そのことが影響していたんだろう」
苦笑した九雀に反して、須磨子は何を言っていいか、わからなかった。
――その小説は、ある男と人形の話だ。男は自分の恋人が死に、あまりにも嘆き悲しんだ挙げ句に一体の人形を造り上げる。その人形を恋人のように愛しながら暮らす男だったが、ある時その蜜月は終わる。男が造り上げたと思い込んでいた人形は、実はその恋人の死体を分解して作った、ただの腐った肉塊だった、という、モダンホラーだ。
九雀の独特の文体と描写のせいか、決して残酷ではなく、むしろ美しく哀しい愛の物語だった。九雀が恋愛要素の入った小説を書いたのは、後にも先にもその一冊だけだ。
「ああ、気にしなくていい。あれは勿論実話ではないから。けれど……なんだかとても、ひとりになってしまった心地で」
「でも私……あの話が、一番好きです」
九雀はへえ、と言った。須磨子は九雀の隣に立ち、前髪に手を伸ばす。
「特に主人公の男が、ただの死体だと気づいて絶望するシーンは、すごく悲しくて、何度も泣きました」
「悲しい?」
シャキ、と九雀の前髪が落ちる。そこから今までわずかにしか見えていなかった目が、しっかりと須磨子を捉えた。
「ご、ごめんなさい。多分九雀さんは、そういう意図ではなかったと思うんですけど……。たった一人残されたあの人は、これからどうやって生きていくんだろうって思ったら、悲しくて」
「そんなことを言ってくれたのは、あなたが初めてだ。……ありがとう」
ふふ、とまたはにかむように九雀は笑った。細い目がいっそう細められる。須磨子は頬が熱くなっているのを感じた。
ハサミを止めて、エプロンのポケットに入れると、手で髪を払う。ぱさぱさと切れ残りが落ちて、今まで見えなかった九雀の素顔がようやくわかった。
須磨子は思わず、手が止まる。見とれていた。
すっきりとした、精悍な顔立ちだった。すっと伸びた鼻筋と薄い唇、少し張ったほお骨、そして細いが形の良い目。その中の二つの黒曜石のような瞳が自分を見ていた。
「あの、もう終わりましたか?」
「あ、はい……すみません」
思わず謝ってしまった須磨子に、九雀は目を見開いて怪訝な顔をする。
「いえっ、失敗してはないと……思うんですけど」
そう言って、リビングの外からの入り口に置いてあった手鏡を取った。
九雀はそれを受け取る。髪型自体は、大きく変わってはいない。前髪と後ろを少し、整えるように切っただけだ。もさもさとした質感とボリュームはあまり変わらなかったが、それでも随分と若く、そして清潔になった。
「ありがとう、須磨子さん」
九雀は目を見ずにそう言って、切ったばかりの頭を掻く。
――やっぱりこの仕草は、照れたときの癖なんだ。
須磨子も微笑んだ。目の前にいるこの男が、自分がファンである作家だとはもうあまり思わなくなっていた。


「九雀さん、あとは九雀さんの部屋だけなんですけれど……」
「ああ……」
脱衣所で服を着ている九雀に声をかける。九雀は剃刀を手に、顎の髭を剃っていた。
「じゃあ明日、原稿があがる予定だからその後で。僕じゃないとわからないものもあると思うので、説明しながら」
そう言って剃刀を置くと、顔をばしゃばしゃと流す。
「新作ですか!?」
思わず、ただのファンに戻っていた。顔をあげた九雀はタオルを取ると、顔を拭う。そうして須磨子を見るとまたはにかんで笑った。
「では髪を切ってくれた御礼に、一番に須磨子さんに読んでもらいましょうか」
「うわあ!」
須磨子は嬌声をあげた。思ってもないことだった。
雑誌「粕鳥文藝」に掲載された前作の短編から半年、待ち望んでいた九雀の新作を、自分が一番に読むことができる。
そうして九雀を見ると、髪を切り、髭を剃った九雀はいっそう若く、さっぱりと男らしい。
「……?やっぱり髭がないとおかしいですかね」
「い、いいえ……」
首を振る。ようやく須磨子は、この家にはこの九雀と自分の二人きりなのだと意識した。家政婦と主人。ファンと小説家。だが女と男でもある。
手を触れただけであんなに照れてみせた九雀に限って何かがあるとも思えないが、自分は確実に、ファンとしてではなく、女としてこの九雀の素顔に惹かれはじめていた。



……寝つけない。
明日、九雀の小説があがる。それを自分は一番に読むことができる。
それだけでなく、今まで須磨子が時に胸をはずませ、時に胸をしめつけられながら読んできた数々の作品が生み出された九雀の書斎に入ることができる。
まるで遠足の前日の子供のように、須磨子は布団の中で何度も目を閉じたり、開いたりを繰り返していた。
――と、誰かが階段を昇ってくる音が聞こえる。九雀だろうか?
まさか、自分の寝室にこんな時間に訪ねてくるとも思えなかったが、須磨子は鼓動が早くなるのを感じていた。
古い階段はよく軋む。ギシ、ギシ、と板を軋ませて、音は少しずつ近づいてくる。そして、須磨子の部屋の前でやんだ。
――まさか、九雀さん。
須磨子は九雀に今日、初めて男を感じた。ひとつ屋根の下、ふたりきりだ。何かあっても何らおかしいことはない。
ドキドキと、須磨子の胸が震える。今にもドアが開いて、九雀が入ってくるのではないかという期待。
だが、それは期待のままで終わった。足音は、須磨子の部屋を通り過ぎて再び廊下をゆく。カチャリ、と、遠くで金属音がした。
――あの部屋だ。
須磨子はバッとベッドから起きあがった。廊下のつきあたりの、鍵のかけられた部屋。九雀が入らないでくれと言った部屋。
パタン、と静かにドアが閉められ、また金属音。そうして再び静寂だけが戻る。
須磨子の鼓動は早くなっていた。
そっと、音を立てないように注意しながら廊下に出る。一歩一歩、確かめるように足を踏み出す。まるで泥棒になった気分だ。
不意に、昼間九雀と話した例の小説の話が浮かんだ。人形を恋人だと思い込んで愛し続ける男の話。九雀のたった一作の、恋愛小説。
――まさか。
うっすらと恐怖が浮かぶ。けれどすぐに、九雀のはにかむような笑顔にそれが打ち消される。
目の前に、誰かが入っていった木のドアがある。須磨子はそっとそのドアに耳をあてた。
中からは、確かに人の気配を感じさせるゴソゴソという音が聞こえるが、それ以外は何も変わったことはない。
須磨子は一度息を吐いて、元来た廊下を同じように慎重に部屋へと戻った。
布団に入って目を閉じても、冴えてしまった頭と鼓動が邪魔をして、なかなか眠りにつくことはできなかった。



「須磨子さん、須磨子さん」
「はいっ」
九雀の声が自分を呼ぶ。須磨子はパタパタと、九雀の部屋へと向かった。
開けられた引き戸の中に、九雀がこちらを向いて座っている。
差し出されたのは、白い原稿用紙だった。
「はい。約束の新作」
「ほんとに……よろしいんですか!?」
九雀が頷く。須磨子はエプロンで、両手をゴシゴシと拭いた。ドキドキと胸が高鳴る。震える手で、そっと原稿用紙を受け取る。そのまま抱きしめてしまいたかった。
汚さないように、皺をつけないようにと気を配りながら、原稿用紙に目を走らせる。クセのある字だが、読みづらくはなかった。
須磨子は次第に、原稿用紙に綴られた物語の中に引き込まれていった。読んでいるのは自分ではなく、空想の中に自分がいるような間隔。
九雀の物語は、彩りをもって須磨子を歓迎した。
「……はぁ……」
十数枚程度のその短編を読み終えて、須磨子は息を吐いた。
胸の中に、恍惚とした余韻が残る。須磨子は確かに、九雀の小説の中で長い時を過ごした。その夢は読み終えた今も醒めない。
ふと、視線を流して九雀の姿を探す。九雀は和室の障子のはまった窓を開け放って、煙草を吸いながらこちらを見ていた。
「どうでした?」
「凄く……良かったです。最後、主人公が完全に花になってしまうところなんて……その花の匂いがするみたいな」
うっとりと原稿用紙を机に置いて余韻を語った須磨子に、九雀は例の照れた仕草をして、頭を掻く。
「はは。面と向かってそう誉められると照れていけない。さて、それを編集部に送ったら、この部屋を片づけましょうか」
よいしょ、と言って九雀は煙草を灰皿に擦りつけると、立ち上がろうとした。
「じゃあ私、郵便局へ行ってきます」
トン、と手にした原稿用紙を揃えた須磨子を、九雀は手で制止する。
「いや、君を見ていたらたまには外へ出てみたくなった。僕が行ってくるから、あなたは休んでいなさい。これからまた働いてもらわなくてはならない」
中がビニールと厚紙でコーティングされた、原稿送付用の封筒を引っ張り出して、九雀はそれに原稿用紙を入れる。
須磨子は素直にその言葉に従った。食事を買いに行こうとすることすらしなかった程の九雀が、自発的に外へ出ると言う。
もし自分がその変化の一端を担ったのならば、喜ばしいことだ。
「そこの本棚の本は好きに読んでもらって構わないから」
そう言い残して、九雀は出ていった。下駄の音が遠ざかってゆく。
須磨子は立ち上がり、本棚にずらりと並んだ書籍郡を眺めた。古いものから新しいもの、ジャンルは様々だ。近代小説に純文学、ミステリ、なんと少女小説まである。
――ほんとうに、不思議なひと。
くすりと微笑んで、須磨子は視線を最下段、一カ所だけ雰囲気の違う洋書で留める。何故だかわからないけれど、ひどくその本が気にかかった。
すっと引き出し、開く。と、その本の入っていた場所の奥でキラリと何かが光った気がした。
手を差し込んでそれを確かめると、指の先に感じたのは金属の感触だった。
――なんだろう?なんか小さな……。
すっとそれを取り出す。鈍い緑色の金属質のそれは、古い形の鍵だった。
須磨子はハッとした。昨夜、九雀らしき誰かが入っていった、二階のつきあたりの鍵のかかった部屋。この鍵は、あの部屋のものではないだろうか。
須磨子は時計を見る。九雀が家を出て、まだ5分だ。
郵便局へは、歩いても片道10分はかかる。往復で早くとも20分。それまでにこの鍵を使ってあの部屋を開け、少しだけ中をのぞく時間はあった。
ドキン、と鼓動が鳴る。
入ってはならない、と九雀は言った。けれどだからこそ、惹かれてしまう。
何か、秘密があるのだろうか。
須磨子は鍵を握りしめた。
――少し、だけ。ちら、と覗いて、後は元通り鍵を戻しておけばいい。見ていないことにすれば、わかるはずがない。
須磨子は何度かの葛藤ののち、誘惑に負けた。


少し早い足取りで、階段を上がる。早鳴る鼓動に催促されるように、短い廊下を歩く。そうしてつきあたりの部屋の前に立った。
ドキン、ドキン、と鼓動が鳴る。
――まさか、死体があったり、しないよね。
思い出されるのは、あの九雀の異作の小説だ。小説の舞台は蔵だった。
鍵を、鍵穴に差し込んだ。指が震えてうまく入らない。
何度か挑戦して、ようやく鍵は鍵穴におさまった。ゆっくりと回す。ピンッという手応えがあった。
――開いた。
ドアノブに手をかけ、回す。ギィ、とゆっくり扉が軋んで開いた。
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