呉ノ朱

小説一覧 作品紹介 よくあるご質問 他サイトへのリンク 御感想はこちらへ 文字サイズ 大 中 小



 
  一.  

この小説に関連するシリーズ
人物紹介・作品解説へ
 
須磨子はその古い邸の前に立っていた。
周囲を、からたちの生け垣がぐるりと囲んでいる。
鋭い棘を持った緑のその木々は、まるで外界を拒絶しているようだ。
大正時代に建てられたという、このあたりでは有名らしいこの邸はお化けが出るよ、と、ここまでの道筋を教えてくれた老婆に散々脅された。
須磨子は手の中の紹介状を見る。雑誌の編集をしている友人から紹介されたのが、この邸に住む小説家の家政婦の仕事だった。

「有名な人嫌いで、変わり者だって噂。原稿だって普通は担当が家まで取りに行くってのに、この人は絶対に家に入れてくれないのよ。だから郵送だし」
彼の作品を掲載している文芸雑誌、粕鳥文藝の編集者をしている5歳年上の友人、奈緒美はそう付け加えたが、須磨子は奈緒美に抱きついて礼を言った。

――竹河九雀。

彼、または彼女の書く小説はどれも難しい変わった作品ばかりだった。決してベストセラーでも有名なわけでもないが、その独特の世界観は固定ファンから支持を受けていた。そして、どんなメディアにも授賞式にも絶対に顔を出さない謎に包まれたその正体も魅力のひとつだ。
須磨子も、新刊を心待ちにしている一人だった。その竹河九雀に会えるとなれば、二つ返事で喜んで受けるに決まっている。
「住み込みでしょ?どうすんの、脂ぎったオッサンだったら。変なことされるかもしれないよ?」
奈緒美の心配げな声にそのときはそのときだ、と須磨子は楽観的に考える。元々あまり深く考え込まない性格だった。

ごくりと一度息を呑み、埃のかぶったチャイムを押した。
掠れた音が響いていくが、返事はない。
風がざあ、と吹いて、からたちの葉がざわざわと揺れた。
須磨子は曇り硝子の填められている引き戸に手をかけた。カラカラと音を立てて、古い玄関扉が開く。
「あのー、粕鳥文藝の紹介で来た家政婦の者ですけれども……」
玄関から奥に伸びる板張りの廊下は暗い。そして随分と埃っぽかった。
ガタン、と最奥の暗い部屋から人の気配を告げる音がした。
恐る恐る、須磨子は玄関に入ると、後ろ手で引き戸を閉める。
「あの、どなたかいらっしゃいますでしょうか」
さっきよりも少し小声だった。玄関のすりガラスから、外の陽射しが差し込む以外は、この邸はどんよりと暗い。老婆の「お化けが出るよ」という言葉もあながち嘘ではないかとさえ思う。
玄関には作りつけの大正モダン風の下駄箱があり、その上には花瓶が置いてあったが、差された花らしきものは枯れている。
視線を落とすと、自分の足よりはるかに大きい下駄が隣に並んでいる。
――竹河先生って、おじいさんなのかしら……?
須磨子がそんなことを思った時だった。
奥の扉がギィと開き、そこから姿をあらわしたのは随分と体躯のいい大男だった。ノシノシと、真っ直ぐに自分の方へと向かってくる。
髪はモジャモジャと伸ばしたまま、まるで手入れのされていない盆栽のようだ。顔が見えない。彼はボリボリとその頭を掻きながら、須磨子の前へ来た。
「……あなたが、家政婦の?」
「は、はいっ」
起き抜けのような低い声だった。髪の間から、僅かに見える目がじいと自分を見て、戸惑ったように僅かに留められた。
年の頃は30代前半といったところだろうか。無精に短く伸びた顎髭に、薄い唇。何より須磨子が見上げるほどの大きな背と、ひょろりとしているが骨太な体格が須磨子を緊張させた。
「とりあえず、上がってください」
「はい。お邪魔します……」
須磨子は玄関先で靴を脱ぐと、膝をついて丁寧に揃える。
そうして振り向くと、その大男は自分には構わずどんどんと廊下を鳴らして行ってしまう。慌てて須磨子はその後に続いた。
通されたのは、リビングのようだった。どの家具も調度品も古く、埃をかぶっている。
「適当に座って」
「はいっ」
そう言ったものの、古典の薔薇の柄の布張りのソファーは、所々に穴が開いて中から綿が飛び出していた。須磨子は自分が座って壊れてしまわないかと不安を感じながら、うながされた通 りに座る。
「あの、これ紹介状です」
「ん」
差しだした紙と、履歴書を並べて須磨子は男に渡した。
テーブルに須磨子がそれを置くと、ぶわっと埃が立つ。須磨子は咳き込んでしまいそうだったが、必死に耐えた。そしてふと自分の手のひらを見て、驚く。
引き戸に触れただけなのに、手のひらは真っ黒に汚れていた。
どれだけこの家に人が入っていなかったのだろう。
だが男はそんな須磨子の様子には少しも構いもせず、丹念に紙を見て、そしてまた頭を掻いた。その肩にフケが落ちる。
男は白いカットソーの上に作務衣を着、下は裾が足りないのか脛あたりまでしかないよれたパンツを履いていた。この家の様子といい、男の姿といい、到底清潔とは言い難い。
「ふむ。……18歳」
「今年19になります。でも16の時から一人暮らししていたので家事は一通 り……」
須磨子は頷いて目の前の男を見た。
須磨子の両親は須磨子が16の時に事故で死んだ。幸い生命保険と、元々家が比較的裕福だったこともあり、須磨子は生活と進学するのに困らなかったが、やはり一人で生活をするのは寂しい。そう思い続けてきた矢先のこの話だった。
「うちはこの通りなんだけど、それでも?」
大丈夫か、ということだろう。須磨子は薄暗いリビングを見渡した。天井のシャンデリアの上にはこんもりとうす灰色の埃が積もっていて、蜘蛛の巣まで張られている。だが須磨子は、別 段それに嫌悪を抱きはしなかった。
「はい。やりがいがあります」
笑顔で男を見た。男はその須磨子の顔を見て、もう一度頭を掻くと、じゃあ、と言った。
「じゃあ、今日からお願いしてもいいですか。部屋は2階の客間を使って貰って構わないし……」
男はふと、何かに気づいて須磨子を見た。そして両手を膝にあてる。
「ああ、私は竹河九雀です」
「あなたが……竹河先生!?」
須磨子は目を見開いた。もしかして、と予想はしていたものの、改めて名乗られると、彼の書く繊細で古風な情緒溢れる日本語の文章と、彼自身があまりにも重ならずにどうしても驚いてしまう。けれどショックではなかった。
「先生と呼ばれるのは好きではないのでやめてください。名前で呼んでくれれば宜しい」
「くじゃくさん、でいいですか?じゃあ私のことも須磨子と呼んでください」
こくりと九雀は頷いて、そうしてまた頭を掻いた。
「須磨子……さん。じゃあ早速お願いします」
はい、と言って須磨子は立ち上がると、あ、と九雀が短い声を上げる。
「2階の突き当たりに、鍵のかかった部屋があるけど、そこだけは入らないでください」
「はい」
資料室か何かなのだろうか?須磨子は素直に頷くと、部屋を出て階段へと向かった。



焦げ茶の手すりのついた階段を上がると、すりガラスが廊下の窓一面に張られて明るかった。2階には部屋が三つ。並んで左手に二つと、突き当たりにひとつ扉が見える。あの部屋が、九雀が入らないで欲しいと言った部屋だろう。
須磨子はそれを横目で見て、一番近い部屋のドアを開けた。
「わ……」
そこは、1階の暗さとは比べものにならない明るい部屋だった。窓にはアンティーク調のカーテンがあり、同じようにモダンな造りの小さなテーブルと、ベッド。どれも長く使われていないらしく、埃を被っていたが、掃除をすればきっと素敵な部屋になる。
須磨子は手に提げていたトランクを開けた。中には衣類と、それから九雀の著作物が入っている。総て初版であることが須磨子の少ない自慢だ。
何もその作家本人の家に行くのに持っていかなくても、と奈緒美は苦笑したが、須磨子にとっては何よりも大切なものだった。
そこからエプロンを出して、身に纏う。と、この家の埃の多さを思い出して、三角巾とマスクも取り出した。
これらは総て、家政婦というイメージから揃えたものだったが、思いの外役に立ってくれそうだ。
「よしっ」
腕まくりをして、階段を降りていく。1階をうろうろと探索した。
玄関の左手に長い廊下。右手に階段。階段の下には和式のお手洗いがあり、廊下の一番玄関に近いところにさっきのリビングと、それに続くキッチンがあった。
「うわ……」
キッチンのシンクには洗い物はなかったが、代わりに埃で白くなっている。コンロもそうだ。
――九雀は一体、食事はどうしているのだろうか?
そう思って奥を見ると、ゴミ袋が積み上げられていて須磨子の疑問はすぐ解けた。半透明のゴミ袋には、弁当のパッケージが淡く透けていたからだ。
一度キッチンを出て、リビングを通る。リビングの対面、廊下の右手側には脱衣所と風呂があった。タイル張りの風呂で、昔ながらのバランス釜のものではなく、ガスのものに改築されていた。
使った形跡はあるので、風呂には入っているのだと須磨子は少しほっとする。
そして風呂を出ると、廊下の突き当たりにさっき九雀が出てきた部屋があった。須磨子はそこをノックする。中から九雀の声が、どうぞ、と言った。
「あの、掃除用具ってどこにありますか?」
引き戸になっている扉の向こうには、畳の和室があり、九雀はこちらを向けるような格好で座っていた。九雀の目の前には資料や本、原稿用紙が今にも崩れそうな程積まれ、壁も一面 が本棚だ。奥にはぺしゃんこになった煎餅布団が見えた。
須磨子は予想通りのこの部屋の光景にもう驚愕もない。
「ええと……玄関の横、階段の下に納戸があるんで、多分その中だと……。使ったことないからわからないけど」
「は、はい」
「あと、掃除機は使わないでください。あの音嫌いなので」
はい、と返事を返して須磨子は納戸へと向かった。


「はあ……」
須磨子は積み上げたゴミ袋の上に座って、腰をトントンと叩いた。
時計を見れば、もう18時。ここに来たのは昼過ぎ、確か13時頃だったから、もう4時間以上もかかりきりで掃除をしていたことになる。
見渡したキッチンとリビングは、なんとか普通の生活が送れるくらいにはなった。2階の自分用にと言われた部屋も今夜心地よく眠れるくらいには片づけた。
これで今日の夕食くらいは、と思い冷蔵庫を覗くと、そこにはペットボトルに入ったお茶の他は、ガランと何も入っていない。
買い物に行かなくてはならないだろうと九雀に声をかけると、返ってきたのは意外な言葉だった。
「ここに電話して、必要なものは届けてもらってください」
そう言って、背を向けたままメモを渡す。書かれた電話番号に電話をすれば、便利屋……いわゆる、なんでも屋だと相手は言った。
――有名な人嫌い。
奈緒美の言っていた言葉が、須磨子にはようやく理解できた。
それでも食事は摂ると言うので、須磨子は電話口で長いリストを告げて、またキッチンへと戻ってきたのだ。
ピンポン、とチャイムが鳴って、玄関口で音がする。続いてドサ、と何かが置かれると、すぐに車が去っていく音がした。
須磨子が玄関へ向かえば、白い箱が積み上げられていた。発砲スチロールの箱から食材が覗いている。いつもこうしているのだろう。
「よいしょっ……」
それをキッチンに運ぶと、須磨子は自分を元気づけるようによし、ともう一度腕まくりをした。



「すごいな……」
「何がお好きかわからなかったので、適当に作ってみたのですけど」
リビングのすみにある二人がけのテーブルに並んだ食事を、九雀は見て感嘆の声をあげた。そうしてボリボリともう一度、頭を掻く。
「美食家ではないから。いただいても?」
「はい、どうぞ」
そう言って隣に立った須磨子に、箸を持った九雀はあれ、と言う。
「あなたは?」
「え、よろしいんですか?」
自分も同じ食卓につけと言っているのだろうか。迷った須磨子に、九雀は手で向かい合ったもう一つの席をうながす。
「……人嫌いって伺っていたので……」
座りながらそう言って、須磨子はハッと口元を押さえた。今のは失言だ。
だが九雀はもさもさとした髪で隠れてかろうじて確認できる細めの目を大きく見開いて、また頭を掻いた。
「嫌いってわけじゃ……。どうも交流がうまくとれないんだ。文章ならまだなんとかなるんだけど」
「す、すみません。失礼なこと言って」
須磨子が肩を縮めると、いや、と九雀は慌てて手を顔の前で振った。
「いいんだ。その……須磨子さんは、どういう経緯で此処に?」
そう言いながら箸を取った九雀に続いて、須磨子は少しホッとする。
「友人が粕鳥文藝で編集をしていて、竹河せんせ……九雀さんの小説のファンだったものですから、たまたま紹介してくれたんです」
「ファン?僕の?」
九雀はゴホッと口に含んだ飯を咳き込ませた。そして少々荒い仕草で味噌汁を口に運んでそれをおさめる。
「は、はい。全部初版で持っているくらい、昔から……。何度か、小説の御感想をお送りしたこともあるんですけど」
「手紙で?」
九雀はもりもりと豪快に口に押し込みながら、箸で須磨子を指さした。須磨子はこくりと頷いて、少し頬が紅潮する。
「はい。一冊読み終わるごとに、一通書かせていただきました。でも……」
覚えているわけがないだろう、と須磨子は思う。九雀はマイナーな作家だが、ファンは少なくない。ファンレターなど何百通 も届いているだろう。
「もしかして、ヒバリの絵の便せんでいつもくれてた?」
「は、はい!」
須磨子は驚いて九雀を見た。九雀は相変わらず飯をかきこみ、飯粒を飛ばしながら喋る。
「覚えてるよ。綺麗な字ですごく丁寧に感想をくれてたから。……おかわり、もらってもいいですか」
九雀から茶碗を受け取りながら、須磨子は踊り出しそうだった。
まさか自分の書いたファンレターを、読み、ましてやこうして思い出さしてくれるなど。
多めに盛った茶碗を渡すと、指が触れた。
わっと九雀が叫んで、茶碗を離す。須磨子はなんとか落ちかけた茶碗を持ち直した。九雀は引いた手を困ったように頭に運ぶ。
――あ、また。
そして頭を掻いた。九雀の顔をじっと見ると、紅潮している。
――照れて、いるんだろうか。
「すまない。その……あまり女性と知り合う機会がないもので……」
須磨子はくすりと笑って、もう一度茶碗を差しだした。
確かに九雀の書く小説は、恋愛の場面が登場することはまずなかった。大概は、純和風の、幻想小説と呼ばれる類のものだ。人が魚になったり、花や木が喋ったりする。
「名前を聞いて、あなたでいいと言ったんだ。……須磨子という名だったから、お婆さんかと思ってしまって」
そう言って、九雀は食事を続ける。見る見る間に皿は空になっていった。
「御馳走様でした」
総ての皿を空にすると、九雀は丁寧に両手を顔の前で合わせた。
「お口に合いましたか?」
はい、と九雀ははにかんで笑った。初めて彼が見せたその笑顔に、須磨子は思わずドキリと胸が鳴る。
「あの、須磨子さん。僕は夜しか食事を摂らないから、あとはなんでも勝手にしてもらって構わない。あまり部屋から出ないし、時間も不規則だからあまり顔を合わせないとは思うけど……どうぞこれから宜しく」
「はい。こちらこそ宜しくお願いします」
須磨子は九雀にならって礼をしてみせながら、胸が少しずつ高鳴っていくのを押さえられなかった。
次頁へ
  このページのトップへ
小説一覧へ
   
     
サイトマップ サイト概要 お問い合わせ  
Copyright(c)2004 - Kurenoaka. All Rights Reserved.