呉ノ朱

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  最終話.  

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「痛いとこ……ない?」
「古蝶さんこそ」
蛍と並んで歩きながら、古蝶は蛍を向いた。
化粧を落とした顔に、ドレスとファーのコート。頬にはまだ血の固まった弾丸が撫でていった傷が浅く走っている。
男でも女でもない今の自分の姿は、どんなふうに見えるだろうか。
「手、繋ごうか」
古蝶は蛍に手を指しだした。蛍はおずおずとその手を掴む。暖かかった。
「古蝶さんの本当の声って……そんなに低いんですね」
ぽつりと、蛍が言う。いつもは裏声の女言葉だ。それが習慣、当然になっていた。だが今は、それすら繕えないほどに身体も心も疲弊している。
「そう。やっぱり男は怖い?」
「わからないですけど……でも、古蝶さんのことは、怖くありません」
蛍のまっすぐな目は、古蝶に向けられていた。その目で見つめられるたびに、古蝶は胸が締め付けられるように苦しくなる。懐かしい痛み。
「俺……蛍のことが、好きだよ」
そう言って、胸がどきどきした。ずっと恋などしたことはなかった。
思えば家を飛び出して、ホストやボーイを転々としながら、誰かを純粋に思うことなど一度もなかった。誰かの行動の裏には必ず打算があり、罠があり、理由がある。蛍のように純粋な心を持つ人間など、いるわけがないと思っていた。
蛍は古蝶の言葉に瞬間、打たれたように古蝶を見上げたが、少し瞳を曇らせて、そうして俯く。
答えは予想せずともわかっていた。
「ごめん……なさい」
蛍はしばらく無言のうち、小さくそう言った。古蝶は苦笑する。
「いいよ。別にどうこうってわけじゃないから」
やはりこんな男とも女ともつかない自分は、蛍に似合わないのだろう。
古蝶が自嘲するように笑ったその時、蛍は言葉を続けた。
「好きな人が……いるんです」
「田舎に残してきた?」
古蝶の手が、蛍の力できゅっとしめられる。蛍は首を振った。
そうしてためらうように何度か唇を噛みしめて、ようやく開く。
「古蝶さんっていう、女の人みたいな男の人が好きなんです」
古蝶は思わず、目を見開いた。
胸がどくりと鳴って、呼吸が苦しくなる。ときめくというのは、このことを指すのだろうか。
声を上げて笑った。なんだかとても、おかしかった。
夜の静かな住宅街に、古蝶の低い笑い声が響く。
「へえ……変わった趣味だな」
「そんなこと……!」
からかうようにして言うと、蛍はむきになったように眉を顰めて古蝶を見上げる。
むっとして声を荒げた蛍の唇に、古蝶は唇を軽く触れさせた。
柔らかいその感触は、初めてのキスのように痺れて甘い。
「こ、古蝶さ……」
「――しょうがないわねえ。私って男にも女にもモテるんだから」
突然のキスに固まってしまった蛍に、古蝶はくすりと笑って、ひとつにまとめていた髪をほどく。
肩下程度の長いストレートヘアがくせをもって跳ねる。
ゆるゆるといつもの古蝶へと戻ってゆくその変化に、蛍の頬が、薔薇色に紅潮してゆく。
古蝶は蛍と繋いでいた手を離すと、ばん、と蛍の背を叩いた。
「ほらっ、とっとと帰るわよ。明日も仕事なんだから」
「はい!」
蛍にようやく笑顔が戻った。古蝶もそれを見て口元を緩ませる。
「お風呂、入れてね。入る前にマッサージもして頂戴」
「はいっ」
くすくすと、蛍は嬉しそうに笑う。不意に、古蝶は自分が拾われた時、ママから言われた言葉を思い出す。
「――蛍、胡蝶の夢っていう話、知ってる?」
「コチョウ、の?」
蛍は首を傾げてみせた。胡蝶はその身体を引き寄せる。
「昔ね、男が蝶になる夢を見たんだって。夢の中で男は自分が人間であることも忘れて蝶として飛んで……で、目が覚めて思うの」
蛍の肩を抱く。この話は、ボロボロに痛めつけられ、心も荒んで腐っていた自分にママが言い聞かせた話だ。そしてそこから、古蝶という名をくれた。
「もしかしたら、この人間の自分こそが、蝶の自分が見ている夢なんじゃないかって。……現実と夢の境界線なんてそれだけ曖昧、ってことらしいんだけど」
蛍は古蝶を見上げていた。古蝶は淡く微笑んでみせる。
「だからね、あんたが昔経験した辛いことは全部、蝶の夢だったと思えばいいの。全部忘れてしまいなさい。それでも不安になったら……私がいるから」
「古蝶さん……」
古蝶の言葉は優しく、蛍の胸に染みた。
「ってあら?なんか微妙に違ってる気がするわね」
本来の意味とはだいぶずれているような気がして、古蝶は眉を顰めてひとりごちる。ママならばもっとうまく話せるのに、とぶつぶつと呟いている古蝶に、蛍は微笑んだ。
「古蝶さん、ありがとう。……大好き」
きゅっと手が握られる。小さな、柔らかい手。それを暖かいと、今の古蝶には思うことができる。
男の自分か女の自分か、どちらが真実かは古蝶にも解らない。 けれどいま、蛍の手を暖かいと思う、これだけは確かなことだ。
季節はもうすぐ春になる。都会のこの街にも、蝶が舞ったりするだろうか。
そんなことを考えながら、古蝶は蛍と並んで家路を歩いていた。





「ちょっと、ボーイ。氷がないわよ!」
「は、はいっ」
あの日からもう1カ月が経っていたが、古蝶は変わらず店に出ていた。蛍も一緒だ。
変わったことといえば、葛城が姿を見せなくなったことくらいだった。
毎日変わってゆくこの夜の街で、変わらないこの平穏な日々が古蝶には愛おしい。
「古蝶ォ、アンタ蛍ちゃんに冷たいんじゃないのぉ?」
「ええ、ただでさえ古蝶さんの言い方はキツいのに……」
赤いぼってりとした唇のモンシロは古蝶の腕を肘でつつく。
それにしっとりした日本美人のシジミも、同調して頷いた。
「うっさいわね!ボーイをボーイとして使って何が悪いのよ!」
「蛍ちゃん、古蝶って家でもこう?」
隣のテーブルのルリタテハが首を傾げてみせる。氷をアイスボックスに入れて運んできた蛍は、曖昧に笑って気恥ずかしさを懸命に誤魔化す。
古蝶が店でこんな風に蛍を扱うのは、照れているからだとわかっていた。
――あれから古蝶は、葛城から与えられたあのマンションを引き払った。
店の近所に決して豪華とはいえないが、二人で住むには充分な新しいマンションを借り、今も蛍と住んでいる。
姉妹のように、女友達のように、そして、恋人のように。
二人が共におばあちゃんになってもこんな風に過ごしたい、過ごせたらいい、と、蛍は夢見ている。そしてきっとその願いは、叶うに違いない。
「ほらほら、みんなちゃんとお客様の相手して!」
ママがパンパン、と手を叩くとホステスたちは肩をすくめた。
カウンターに蛍が戻ると、ママがいそいそと何かを持って近づいてくる。
「ね、蛍ちゃん、携帯のメールってできる?」
「メール、ですか?」
ママの手の中には、最新機種よりいくつか古い型の携帯電話が握られていた。
「娘からね、初めてメールが来たのよぉ。でも使い方なんてわかんなくて。どこ押せばいいの?」
ママは心底嬉しそうに声を弾ませる。蛍は微笑んで携帯電話を覗き込む。
「ママばっかりずるぅい」
「いいのっ!ママなんだからっ!」
ルリタテハがその姿を非難したが、ママの顔のゆるみは治らない。
不意に顔をあげた蛍は、古蝶と目が合った。
古蝶は片眉を上げて、口だけで「がんばんなさい」と言って、また客へと視線を戻した。
蛍は、ふと思う。
もしこうしてここにいる自分が蝶の見ている夢ならば、絶対に醒めてほしくない。この美しい仲間の蝶たちと、いつまでもここでこうしてひらひらと笑っていたい。
そう願いながら、ママの手の中の携帯電話に視線を戻した。

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