呉ノ朱

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  一.  

人物紹介・作品解説へ
 
「かぶきちょう、いちばんがい……」
蛍の見上げた先には、少し薄汚れたネオン看板があった。
周りには勿論見知らぬ人ばかり。
喧噪と酒の匂い、煌びやかな服とライトの交錯する道は、いままで蛍が歩いてきたそれとはあまりに違っていて、なんだか眩暈がしてしまいそうだった。
「東京って、凄いところ」
蛍は肩から提げていた鞄を、一度掲げ直す。
こんな小さな鞄に入りきるほどの物しか、実は自分は必要としていなかったのだと、昨日の夜知った。


家を出た早朝はまだ空気が冷たかった。
足下には夜更けに降った雪がまだ溶け残っている。
もうこの雪の積もる道を、踏みしめながら歩くことはきっとない。
そんなことを考えながら、蛍は今朝、家を出た。
卒業したら家を出るつもりだ、と蛍がクラスメイトに話した時、友達は皆止めた。東京は怖いところだから、と。
そんな中、一人だけその話に乗ってくれたのは、クラスでも目立つ存在である、美奈子だった。茶色い髪と、赤い唇。不良だと眉を顰める友達も多い中、蛍は美奈子をただ素直に綺麗だと、そう思っていた。
「働くところとか、住むところとか、決めてないんでしょ?」
「どうやって調べたらいいかも……わかんなくて」
蛍が顔を曇らせると、美奈子は手帳を片手に、メモを取った。
「はい。姉貴がね、ここでクラブのママをしてるから。結構家出とか飛び込みの子も雇ってるし、住むとことかも助けてくれると思うよ」
握らされたメモには、電話番号と店の名前、そして住所。
蛍はありがとう、と頬を紅潮させながらそのメモを見て、綺麗な人は字まで綺麗なのかしら、と思ったのだった。


……けれど。
「ここの……はずなんだけど」
見上げた先にある看板に書かれた文字は、明らかにメモとは違う。
公衆電話から電話をしてみても、おかけになった電話番号は……という、
無機質なアナウンスが流れるのみだ。
蛍は携帯電話すら、持っていなかった。頼れる人など勿論、いるわけもない。
不意に、スーツ姿の男が肩を叩いた。
「君、さっきからウチの店の看板見てたけど、面接か何か?」
髪をオールバックに撫でつけて、黒いスーツを着た男が蛍に声をかけた。
蛍は慌ててメモを差し出す。
「あのっ、このお店をたずねて来たんですけど……」
「ああ、ここは先月に閉店したんだよ。今はウチの店が入ってる」
「そう……ですか。どうもご親切にありがとうございました」
ぺこり、と丁寧に礼をして踵を返す。と、男が後ろから更に続けた。
「もし入店希望なら、ウチの店はどう?」
「いえ……人を訪ねて来たので。ありがとうございます」
顔の前で手を振ると、男は笑顔を一度返して、階段の上へと昇っていった。
――とりあえず、交番に行ってみよう。
蛍はもう一度肩に提げていた鞄を持ち上げる。
すれ違うのは、ファーのついた豪華なコートを着た女や、 紫や黄色のキラキラと光るスーツの男。 交番はどこですか、と、なかなか声をかけることもできない。
そのまま道なりに、とぼとぼと歩く。と、少しずつネオンの数が減り、人通りも少なくなってきた。
――戻った方が、いいかもしれない。
蛍が振り返ったその時、
「お嬢ちゃん」
不意に、顔を赤らめた中年の男性が声をかけた。
「お嬢ちゃん、2万でどう?」
「2万……ですか?」
蛍はその男の言った言葉の意味がわからずに、首を傾げて見る。
「少ないかな? お嬢ちゃん可愛いから3万でもいいよ」
「ええと……3万って、何のことですか?」
男は蛍の表情に、一瞬顔をこわばらせたが、すぐににい、と笑ってみせる。
「その荷物、家出してきたんだろう? おじさんがいいホテルを紹介してあげるよ」
「ホテルって、高いんですよね。私、お金あんまり持ってなくて……」
「いや、おじさんが全部払ってあげるから。ね、一緒に行こう」
さっきの男といい、東京は怖い人ばかりだ、と友達に吹き込まれたことがまるで嘘のようだ。 そう思いながら、蛍ははい、と笑顔で返す。
その笑顔に、男はそうかそうか、と、肩を撫でるように抱いた。その仕草と体温に、思わず反射的に蛍はぞく、と悪寒が走る。思わず男の手を振り払ってしまう。
「す、すみません、触られるの厭なんです」
「そうか……。じゃあホテルに着くまでは、ね」
振り払われた手をもう片手でさすりながら、男は蛍を促した。
「ちょっと待ちなよ」
歩き出した蛍の前に、豪華な毛皮を着た、背の高い女が立っていた。
「さっきから見てたら、この子何にもわかってないみたいじゃないの。そういうことしたいなら、他の子にしな!」
「な、なんだお前!」
蛍もあっけに取られて、女と男を交互に見る。どうしてこの女の人は怒ってるんだろう。
「あんたもねえ、そんなナリでこの辺うろつくんじゃないよ! いいカモですって言いふらしてるみたいなもんよ?」
「ええと……す、すみません……」
もしかしたらこの女性は、このおじさんの奥さんなのかもしれない。蛍は咄嗟に頭を下げた。
恐る恐る顔を上げると、その女ははあ、と一度長い溜息を吐き出す。
「ほら、オヤジはとっとと家に帰るんだよ!! ほらっ、ほらほらっ!」
「この……×××野郎!」
「だったらどうした!」
怒鳴った男の声をはるかに凌駕する僅かにハスキーな怒声が、静かな夜の街に響く。
中年の男は悪態を付きながら駆けるように去っていった。 男の言った意味は、蛍にはよくわからなかった。
「あ、あの……」
「いいんだよ!あいつはね、あんたの身体を買おうとしてたの。わかる?」
見上げた先には、白い肌と、細い身体。黒いラメのついたドレスに、高そうな毛皮のコートを着た女が蛍を見下ろしている。
「助けて……くれたんですか?」
「余計なおせっかいだった?まあいいわ、あんたも早く家に帰んなさい」
赤いピンヒールが踵を返す。蛍は思わず、毛皮のコートを掴んでいた。
「もー、何!?」
「あの、ありがとうございました!」
深々と礼をして、そして見上げる。思わず笑みがこぼれた。
どうして見ず知らずの自分を、助けてくれるんだろう。
さっきのおじさんも、それでもきっと、私が困ってたから声をかけてくれたのかもしれない。思わず笑顔になっていた。
女は蛍を一度目を見開いて見て、そして困ったように頭をかく。
「もしかしなくても、今日帰るところないんでしょう?」
「家出、してきたんです」
はあ、と大きな溜息を一度吐く。長いまつげと、琥珀の色の髪がさらさらと揺れる。蛍はなんとなく、美奈子のことを思い出していた。
「で、どうするの、今日は」
「なんとかなると思います。東京の人、いいひとばかりですから」
どん、と胸を叩いてみせる。いざとなったら、駅の端っこで寝させてもらってもいい。だが笑顔の蛍とは逆に、女はもう一度、深い溜息を吐いた。
「……とりあえず、一緒にいらっしゃい。おなかはすいてる?」
「は、はい」
そう言われて初めて、朝から何も食べていないことに気づく。蛍は急に、おなかがぐう、と鳴ったような気がして腹をおさえた。



"マダム・バタフライ"と書かれた、紫のけばけばしい看板のついた扉を開けると、蛍の想像もしたことがない世界が待っていた。
「いらっしゃぁーい! ……ってなんだ、古蝶じゃないのォ」
「何言ってんのよ、この店のナンバーワンのお帰りよ」
飛び込んできた喧噪と一緒に、蛍の目の前に立っていたのは、相当に筋肉質な、けばけばしい程の化粧をした女だった。
ふさふさとした睫と、目の上が真っ青になる程のアイシャドウ。
なよっとした仕草で、先程蛍を助けてくれた女にしなだれてから、蛍に気づいて、頭に手を置く。
「まあカワイイボーヤ。何処で拾ってきたの?」
「とりあえず何か食べさせてやってよ。ママは?」
一番近くにいたサラリーマン風の男が、毛皮のコートを恭しく脱がせる。
まるでここはお城のようだ。キラキラと光るシャンデリア、着飾った女たち、笑い声と音楽と喧噪。ならば古蝶と呼ばれたさっきの女は、きっと女王様だろう。
「ママー ママァー!」
「なぁに。あらっ!あらあらあら!まあまあまあ」
奥から出てきたのは、貫禄のある着物姿の中年の女性。
ママと言うからには、彼女のお母さんなのだろうかと蛍は思った。
人並みを押しのけるように蛍のところまで駆け寄って、柔らかい手で蛍の頬を包む。
「古蝶、いつ産んだの?」
「そのへんで拾ったのよ。じゃ、ママよろしくね」
ひらひらと手を振ってから、古蝶はボックスになったソファーへと座る。
拍手が上がった。黒いドレスがキラキラと光って、なんて綺麗。
蛍がうっとりと古蝶を見ていると、その視界を奪うように、ママと呼ばれた女性が顔を出す。
「子猫ちゃん、お名前は?」
「蛍です。あの、はじめまして」
「まア、ほたる!? キレイな虫の名前ねっ。アタシたちのお仲間かしら?」
けたけたと、最初に顔を出した女が笑う。
おだまり、とママがそれを制止して、蛍を奥へと促した。
「とりあえずその席に座っててね。今、何か食べ物出すから」
「すみません。ありがとうございます」
「ん、イイ子ね」
案内された先は、ビロードの赤い布の貼られた座り心地のいいソファー。
店はさほど広くはなかったが、同じボックスのソファーセットが4つあり、蛍の座っていない他の3つは、客と女で埋まっていた。
何もかもが、蛍にとって初めての世界だった。これがクラブというものなんだろうか。
きょろきょろと視線を巡らせた先にバーカウンターがあり、その中でママと呼ばれた女性が自分のために何かを用意してくれている。
そのまま入り口の方まで見渡すと、一瞬、古蝶と目が合った。が、気づかなかったのだろうか、そのまま隣のサラリーマンにしなだれかかる。
「お待たせ。こんなものしかなくてごめんなさいね」
「いえ! 充分です。ありがとうございます」
テーブルの上には、レンジで温められたピラフと、オレンジジュース。
いただきます、と一度手を合わせてから口の中に運ぶと、じんわりとおなかが暖かくなる程美味しかった。
「美味しいです。私のために……ありがとうございます」
スプーンを止めて、向かいに腰掛けたママを見る。
ママは一度自分の頬に手をあてて、照れたように笑うといいのよ、と言った。
「ところで蛍ちゃん、どういう経緯でここに来たの?」
そう言われて、二口目のピラフをオレンジジュースで飲み下した。
今朝家を出てきたこと。美奈子から紹介されたクラブがなかったこと。
男に絡まれて、古蝶に助けられたことを簡単に話すと、ママは二度、大きく頷いた。
「大変だったのね。これからどうするつもり?」
「家には、もう戻れないので、お仕事を探して……できれば住み込みとか、なんとかするつもりです」
「でもねえ、蛍ちゃんはいくつ?」
高校を卒業したばかりで、18歳ですと告げると、ママは少し俯いた。
「ごめんなさい。私にも同じ年頃の娘がいたのよ」
「いえ」
いた、ということは、亡くなってしまったのだろうか。
蛍が言葉に詰まってピラフを口に運ぶと、ママはそれを察したように続けた。
「ホラ、あたしはこんなナリでしょう? 奥さんに逃げられてねえ。もうかれこれ10年も会ってないわ」
「奥さん……って?」
スプーンを運んでいた手が止まる。見開いた蛍に、ママもまた瞠目した。
「やだわ、蛍ちゃん、オカマって知ってる?」
「聞いたことはあります、けど。ママさん、男の人なんですか?」
ごくり、と思わずピラフをそのまま飲み下して、蛍は思い切りむせた。
「そおよぉ。ここはね、オカマバーって言うの。ここにいるのはみんな、元・男ばっかりよ」
大丈夫、とママがどんどんと背中を叩く。
嫌悪感はなかった。さっき、あの男に触られた時はあんなに悪寒が走ったのに。
「蛍ちゃんは女の子よね? あたしたちみたいなの、気持悪いかしら?」
「いえ! だってみんなとってもキレイで、素敵です」
咳き込んで涙目のまま、蛍が見上げると、ママはまた一度顔を歪めた。
そうして小指で少し目頭を押さえて、顔をきっと上げる。
「あなた、いい子だわ。気に入った。……ウチで働いてみない?」
「でも私、女ですけど、女でもオカマになれるんですか?」
蛍の言葉に、ママは豪快に笑う。
「ううん。ちょっと失礼」
おでこに手があてられる。柔らかい、優しい手だった。これが中年の男の手だとはどうしても蛍には信じられない。
前髪を上げられ、ショートとセミロングの中間の髪を撫でつけられる。
「うん、いいわ。蛍ちゃん、ウチでボーイやんなさい!」
「ボーイ、ですか?」
「そう。お客様にお酒や食べ物をお出ししたりするの。どう?」
否などと、答えるはずがなかった。願ったりもないことだ。
二つ返事で頷くと、ママは満足したようににっこりと笑った。
「じゃああとちょっとで今日は閉店だから、そうしたらみんなを紹介するわね。住むところも考えてあげるから。心配しないで」
「ほんとうに、ありがとうございます……!」
蛍は思わず立ち上がった。深々と礼をしたまま、顔が上げられない。
恵まれている。こんなに暖かい人たちがいるなんて。
ママは笑顔で立ち上がると、カウンターの中に戻って行った。
机の上のピラフは、もうすっかりと冷めてしまっていたが、蛍にとっては今まで食べたどんな料理よりも美味しかった。


「……というわけで、明日からボーイとして働いてもらうことにしました」
客が総ていなくなると、店にいたホステスたちが集められて、その前で蛍は紹介を受けた。
「ちょっと待ってよ! どういうこと?」
「どういうことって、あなたが拾ってきたんでしょう、古蝶」
立ち上がったのは、古蝶ただ一人だった。ママがなだめるように言葉を続ける。
「いい子だもの。それにボーイだって欲しかったんだし。丁度いいでしょう?」
「オカマの店に、本物の女がいるだなんてお笑い草だわよ」
腕組みをしてふん、と鼻を鳴らしてみせる古蝶に、蛍は身体を小さく縮めた。彼女には嫌われているのだろうか。だとすればとても寂しい。
「いいじゃないの。蛍ちゃん丁度中性的なんだしさぁ、二丁目のジルベール、なんて、噂になるわよォ」
なだめたのは、店に入って最初に声をかけた体格のいい女だった。
「じゃあ、紹介するわね。まずこの子が」
「ハァイ、モンシロでぇす。心は永遠の処女なの。よろしくねっ」
その女はモンシロと名乗って、ぎゅう、と両手で手を強く握った。
ごつごつとした男性的な身体と、厚い化粧。だがとても暖かい人柄が伝わってきた。
蛍はぺこ、と頭を下げて笑顔になる。
次に時計回りに、2人のホステスが紹介された。
「シジミです。これからよろしくね」
長い黒髪に、桃色のスーツの大人しそうな華奢な女だった。
彼女はどこからどう見ても、女にしか見えない。
「ルリタテハよ。この店の中では一番若いの。手術済みだから、アレはついてないけど蛍ちゃんならレズでもオッケー。ルリって呼んでね」
そうして次に紹介されたルリは、綺麗な巻き髪と真っ赤なミニスカートのスーツにできた、豊かな胸の谷間を強調させながら、婉然と微笑む。
ルリの言葉の意味は半分もわからなかったが、蛍は必死に御辞儀をした。
「……古蝶よ。がんばんなさいよ」
視線を流していって、やはり古蝶が一番綺麗だ、と、蛍は思った。
気まずそうに腕を組んだまま、ちらっと蛍を一度見て、古蝶はそっぽを向く。
「これでウチの女の子は全部。それから私がママね。一応、アゲハっていう源氏名があるんだけど、ママとか、マダムって呼ばれてるから、蛍ちゃんもママって呼んでね」
「はい、ママさん」
なんだかママと呼ぶと、懐かしかった。東京に来て、仕事までもらった上にママまでできるなんて。恵まれている、と蛍の胸は熱い。
「蛍ちゃんはそのままホタルでいいわよね。洋服は明日までに用意しておくからね。それから家は……古蝶」
「えっ!?」
ちろりと古蝶を見たママの視線は鋭く、有無を言わせない迫力を持っていた。
「あなたのマンション、一部屋余ってたでしょ? 貸してやんなさい」
「ええっ!?」
声を上げたのは、蛍と古蝶が同時にだった。蛍は遠慮の声、古蝶は反論の声だったのだが。
「じゃ、みんな明日からよろしくね」
「よろしくおねがいします」
蛍は頭を下げたまま、しばらく頭が上げられない。
こんなに良くしてもらって、罰が当たらないだろうか。
「あの、ママさん、私、家はいいです」
「え?」
おずおずと微笑んだ蛍に、ママは怪訝な顔をする。
「だってここまで良くしていただいて、古蝶さんにも助けていただいて、これ以上甘えるなんてできません。しばらくお店のすみっこでも貸していただいてお金が貯まったら……」
「でも」
しばらく向かいで立ちすくんでいた古蝶が、困ったように手を上げて蛍の言葉を途中で止めた。
「それじゃあたしが悪者みたいじゃないの。……いいわ。お金が貯まるまでよ?」
「ほんとに、いいんですか?」
古蝶の表情は苛立っているようで、蛍が不安げに見やると、古蝶はいっそう顔を歪ませて怒鳴った。
「あーもうっ、オカマに二言はないの!」
「はいっ」
そう言ってファーのコートを肩にかけて出ていく古蝶について、蛍は店の中、そしてママに一礼すると、店を後にした。
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