呉ノ朱

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  愛などない
  最終話.  

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「一乃さん!あなたいままでどこにいらしてたの!?」
「すみません……」
伯母の激しい叱責にぼんやりと呟くように謝って、一乃は振袖の裾を払うこともせずにストン、と座布団の上に正座する。
「相手の方が遅れられているから良かったようなものの……」
一乃の覇気のなさに怒気を削がれても、自己満足のためにぶつぶつと続けられる彼女の小言にうんざりしながら、一乃は向かいの席を見て、俯く。
自分にとっては不要となったこの見合いだが、この見合い自体元々形式だけで、もう既にその男と結婚することは父と相手方で確約となっているだろう。楽に断れるとも思えない。
いつまでも呪文のように小言を続けている伯母と、これから来る人の善さそうだった見合い相手に「さっきまで教え子とセックスしてました」などと言ってやったら、どんな顔をするだろう。
無意識のうちにそんな意地の悪いことを考えてしまった自分に気づき、それではまるで白倉ではないか、と彼を思う。
白倉に従うままに婚姻届けにサインなどし、確かに覚悟は定め後悔はなかったものの、問題はまだ山積みで、二人の前途はあまりにも暗い。
それでも、と、一乃は微かに苦笑する。
結末はいつだって、ふたりはいつまでも幸せに暮らしました、だ。
……さて、気晴らしにせいぜい態度を悪くさせてやろう。そんな大人げないことを、それもまた白倉に毒されているのだとは気づかずに、思った。
「ちょっと一乃さん!聞いてるの!?」
伯母にぴしゃりと叱りつけられ、一乃は現実に戻される。今初めて伯母の存在に気づいたかのような表情をさせた一乃に、伯母が溜息をつこうとした時だった。廊下に影が差す。
一乃は振り向かず、背筋を伸ばしてうつむいた。
「遅くなりまして申し訳ありません」
低い声が降って、隣の伯母がきちんと座り直して会釈する。
ふて腐れた一乃は、視線を畳に落とし、彼を見ることもしなかった。
衣擦れの音に、例の写真の男が向かいに腰を下ろしたとわかる。
見ずとも写真で顔はもう覚えていた。実物を見る必要もないと思った。
だが、その男を見上げたらしい伯母が、膝に載せた手を緊張のようにぎゅっと握りしめたことに、一乃は怪訝に眉を寄せる。
「あ、あなたが……?」
反射で発したような、感嘆とも驚愕ともとれる伯母の声に、一乃も思わず弾かれるように顔をあげて、ついには彼を見てしまった。
「……………!」
その男の姿が一乃の瞳に映った瞬間に、心臓は一度鳴ったきり止まってしまった。どうしたらいいだろう。目が逸らせない。
―― ひと目惚れとは、このことか。
神経が彼の姿を脳に伝えるより早く…… 一乃はその恋に、落ちていた。
一乃の視線を一身に受けた男は、畳に正座して三つ指をつき目を伏せて、深々と一礼し終えたところだった。
仕立ての良い深緑のスーツの背中を起こしてゆく彼は、自然な栗色の髪を後ろに撫でつけて額を露わにし、それがいかにも理知的で聡明に見える。
柳眉の下の切れ長の目は伏せられ、長い睫毛をして滑らかな肌に陰を落としている。筋の通 った鼻梁、薄い唇は品のある微笑みの形。
一分の隙もない程に端正な、彫刻のようなあまりに完璧な人間。
男が静かに伏せていた瞳を開く。髪と同じ栗色の睫毛があがる。緑がかった茶色の虹彩 を持った、総てを見透かすような澄んだ瞳が一乃をとらえた。
――白倉が、そこにいた。
「し……っ!?」
思わず名前を叫びかけて、一乃は慌てて手で口元を抑える。
白倉はその一乃の様子をちらりと視線だけで確認し、伯母ににっこりと人の好い笑顔を向けた。
いつだったか、白倉を双子ではないかと疑ったことがある。……まさか、本当に?
「申し訳ありません、次兄のものと紹介状が行き違っていたようで」
平然と言い放った白倉は、伯母に対してもう一度軽く一礼した。
一乃は相手の名前を聞いていなかった。だから今日の見合い相手が「白倉」であることを、知らなかった。
白倉の言葉は丁寧で、謝っている筈なのに少しも威厳を損なわない。
瞬間で人を惹きつけ、支配することのできる独特の瞳。
生まれながらの王だけが纏うことのできるその空気に、本人だ、と、直感で一乃は理解した。
「四男の邑生と申します。藤篠先生には普段からお世話に」
「じゃ、じゃあ鷺ノ宮の……?」
写真とはまるで別人の見合い相手であるということに驚き、更に高校生であることに伯母はいっそう戸惑っている様子だったが、一乃の驚愕はその比ではない。
「はい。現在は六学年で、生徒会長の任をいただいております」
さっきまであんなにも情熱的に自分を抱き、送り出した彼とはまるで違って、大人びている。それはスーツ姿だからというわけでは決してない。
いつもより低い声質と凄味を増した立ち振る舞いは、対峙した誰に対しても、一乃より年長と確信させるだろう。到底高校生になど見えなかった。
「卒業後は帝大へ進学します。更に留学も予定しておりますので、わたくしにとっては学生結婚、という形になりますが――」
口を挟む隙を与えずに早口で白倉は言い、反応を伺うようにチラと伯母だけに視線を流す。
しかし肝心の伯母は既に彼に魅了されてしまっていて、白倉があと4年は確実に学生の身分であることや、ふたりの年齢差など頭の中から消失してしまっているようだった。
「いずれは内閣府の方でお世話になるかと」

ふっと視線を和らげて一乃だけを見た白倉のその瞳と言葉に、一乃は彼が今まで自分に示してきた符合を一致させ、彼の進路を悟る。
しかし、それまで学生である彼を自分が養うような形になるのだろうか、という一乃が抱いた疑問を、白倉は見透かしていた。
「一乃さんには白倉に嫁いでいただく形となりますが、わたくしは既に一族の仕事を任され、経済的には自立しております。不自由をさせるようなことは決してしないと、お約束致しますよ」
きっぱりとそう言い切った白倉の、理路整然とした反論を許さない物腰に、伯母はただただ圧倒されてしまっていた。
呆然としたまま返す言葉を一言も見つけられずに、彼に魅了されている伯母の隣で、一乃は遠い目をして、心底怖ろしい男に愛されてしまった、と、諦観の瞳で白倉を見た。

ひとしきりの形式的な見合いの後、あとは若いおふたりで、と通例の言葉を残し、逃げるように席を立った伯母の足取りは軽かった。
せわしない足音が去っていくのを耳で確認し終えると、一乃はようやく、緊張に止めていた息を吐き出すことができた。そうして向かいに座った白倉を責めるように睨む。
「初めから……このつもりだったのか!?」
「まさか」
白倉は一乃の言葉に苦笑すると立ち上がり、廊下から降りて日本庭園へと立つ。そうしてゆったりとした仕草で一乃を振り返ると、手を差し伸べた。
「どうぞ」
背後の池に反射したいくつもの太陽光の洪水を背に、ワルツでも申し込んでいるかのように手を差しだしている彼の姿は、真実、物語の王子様だ。
目の前に広がる景色はバロックではなく純和風で、シャンデリアの代わりに池が煌めき、楽隊の室内楽ではなく鳥のさえずりが遠い空に聞こえる。
着ているのは振袖であり、ワルツの踊り方など自分は知らない。
――それでも、光の中から彼が呼ぶなら。
眩しさに目を細めながら、一乃は魔法にかけられたように素直に廊下へ出ると、差し伸べられたその手のひらに自分のそれをそっと載せた。
「踊って、いただけますか?」
めずらしくあからさまな冗談を言って、白倉がくすくすと笑うので、一乃もまた吹きだすようにして、ゆるやかに笑顔になる。
白倉の手を借りながら飛び石の填められた地面に足をつけば、そこには散策用に草履が用意されていた。
だが、一乃はそれを履くことをしなかった。
もう12時の鐘は鳴らないだろう。ならば残していく靴も要らない。
足袋のままで土を踏んだ一乃に、白倉は一瞬目を見張ったが、じきに一乃の意図を悟り微苦笑する。
そうして池の前まで足を進めたとき、白倉がふと何かを思索したように立ち止まり、視線を宙に向けた。
「ああ、そういえば僕は初めて嘘をつきました。あまりにも必死でしたので、無意識で」
嘘も方便とはこのことを言うんですね、と白倉は笑う。
何のことだかわからず、一乃は白倉を怪訝に見上げたまま、目の前の静謐な池のせせらぎを聞く。
白倉は恥じ入ったように微笑んだ。
「紹介状が行き違っていた、という嘘です。つい先程までは、先生のお相手は間違いなく兄でした」
「……兄でしたって……、じゃあ……!」
一乃は白倉の言葉に打たれたように彼を見る。白倉は眩しげに目を細めて、微笑で頷いた。
この見合いの話を一乃が教えられたのは一週間と少し前のことだったが、それよりずっと以前に、おそらく藤篠側から白倉の家に向けて持ちかけられた話なのだろう。そして年齢と立場的な、他にも様々な考慮から、あの写 真の男、邑生の兄である次男が選ばれた。そして白倉は知ったはずだ。一乃が兄と、愛などない結婚をするであろうことを。
――それが白倉が今日まで一乃にしてきた仕打ちの……真相。
霧が晴れた瞳で、一乃は白倉を見る。胸が痛い。
白倉は、或いは切なく傷ついてきたのだろうか?……いつから?
「……だから、焦っていたんですよ」
でなければあんなリスクの高い手段を誰が使いますか、と自己嫌悪したように小声で、吐き捨てて言った白倉の横顔は拗ねた子供のようで、一乃にだけ初めて見せた、18歳の等身大の彼に違いなかった。
照れたように僅かに顔を赤くしてそっぽを向いたその年下の男を生徒を、初めて一乃は姉のように教師のように、愛おしいと、慈しむように優しく感じることができる。
――-何度、恋をすれば済むだろう。この男に。
思わず微笑みかけて、ひとつ気になった言葉に、一乃はギクリとその笑みかけた顔を強ばらせた。
「……ちょっと待て、白倉」
「なんでしょう」
ようやく一乃を向いた白倉は、もういつもの王者の顔へと戻っている。
なんとなく訊くのがおそろしく感じられるような、疑問だった。
「つい先程まで、と言ったな……?」
「はい」
にっこりとした、けれど決して目は笑っていない白倉に、なんとなく一乃はぞくりと寒気を覚える。
どうして急にそんな変更ができたんだ、とまで言葉を続ける必要はなく、白倉の瞳が青味がかる程に冷徹な色を揺らす。
「兄はふん縛って、そこの便所に転がしてきました」
ふ、と愉しそうに、顔の筋肉だけで、白倉は笑った。
複雑な感情が籠もっているような、荒い口調に一乃は凍りつく。
――やはり、この男は怖ろしい。
「……冗談ですよ」
一乃をからかうように、くつくつと白倉が笑う。だが一乃は顔を強ばらせたまま、笑うことなどできそうになかった。
結局のところ、この自分が愛してしまった怖ろしい男の真否だけは、一生かかっても一乃には、理解できそうにない。
だが、認識することはできる。
どうしようもない程に愛されていて、またどうしようもなく愛してしまっているのだと。
「ここで指輪でも出せれば格好がつくのですが」
白倉は自分の手のひらに恭しく載せたままだった一乃の右手を降ろし、空いていた左手を掴み直すと、すっと口元に運ぶ。長い睫 毛が眩しい光に陰をつくる。
手の甲に唇を優しくあてられてのキス。
それに胸を鳴らした一乃は、ただ、少女だった。
「買いに行く時間がなかったので、これで」
白倉は一乃の左の薬指を、そのまま口に含んだ。
ぬめった温かい舌の感触に指を包まれて、一乃は身体を震わせる。
ちろりと上目遣いで反応を伺うように見られながら、白倉は白い歯をのぞかせ、薬指の根元を強く、強く噛まれる。
その痛みは、ぞくりと甘い。
痛みを快楽を受けて、今頃自分の脳内では白倉の言っていた現象が起きているのだろうか。
「これで――あなたは、もう僕だけのものだ」
ふ、と白倉は片眉を上げて微笑う。一乃は頷くしかなかった。
口元から抜き取られた薬指の根元には、赤い窪みが残される。
それは契約だった。心臓に最も近いとされるその指を捧げることで、もう自分は惜しみなく総て、この男のものであるのだと、一乃に認識させる。
白倉が微笑んで一乃を見つめるので、一乃はまだ痺れるように優しく痛むその痕に唇を、彼の無言の命令のままに、そっと寄せることで応えた。
「ああ、大きくなってしまいました」
平淡な声と微笑でさらりと白倉は言った。
言葉の意味を解して、ぎょっとして見上げた一乃の上で、白倉の表情がすう、と色を帯びてゆく。
彼はちろりと唇を舐める仕草を、した。
「どうしましょうか?先生」
いつかの生徒会長室で、問われたのと同じ問いかけ。
忘れかけていたいまになって、先刻奥に白倉が残していった所有の証が、とろりと溢れて太腿を伝う。
――どうしようか。
艶めいた視線が、一乃を見ている。
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