呉ノ朱

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  愛などない
  六.  

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「こちらにいらしたんですか」
ドアの開く音と共に入ってきた白倉に、一乃は反射的に振り向いた。
白倉はいつもの笑顔で、にこにこと一乃を見て、会長席へと向かう。
生徒会長室に続く鍵を持っているのは、顧問である一乃と白倉だけだ。ここにいれば白倉は来るだろうと思っていた。
「眼鏡を」
「ああ、そうでした」
胸ポケットから慎重に取り出すと、白倉は一乃の顔にそれをかける。
微笑んで僅かにのぞきこむように見た白倉と視線が絡む。
その瞳は日本人には異質な帯緑色の虹彩をして、緑がかった茶色に澄んでいることに、一乃はいま初めて気づかされる。
「こんなもので隠すのが心底惜しい」
「…………」
眼鏡のつるを丁寧に耳にかけて離れていった白倉の手の温度を頬でとらえながら、今の言葉は世辞だと、一乃は唇を軽く噛んだ。
白倉の変化は、恐らく自分以外の誰も気づくことはないだろう。同じ柔らかい笑顔であるのに、纏った空気は明らかに張りつめている。
彼をそうさせたのは、さっき自分が流した涙に違いなかった。
痛む胸を懸命に奮い立たせて、一乃は手を伸ばす。
「それと、盗撮したテープを……返してくれるか」
「いやだと言ったらどうなります」
ちらりと伺うように見て白倉は笑ったが、脅しはもう効かないのだと、一乃のその立ち振る舞いで理解しているようだった。
足は会長席へと向かっていた。
「――そうですね。残念です」
制服の内ポケットから小さな鍵を出すと、それを引き出しに差し込んで中からテープを取り出す。
「ダビングなどはしていません」
椅子に座ったままの手から渡されたそれを一乃は強く、手のひらで握りしめる。
この手の中で潰せてしまえそうなこれが、思えば自分達の始まりだった。
屈辱は消えてはいない。だがいまはそれ以上に強い感情が、一乃の胸を占めていた。
「これで……おまえと私は対等だな?」
「何が、仰りたいんでしょう」
ぴくりと白倉の眉が動く。
彼はもう、笑顔で感情を隠すことはしなかった。口元は笑みの形になっていても、明確に不快げな視線に見据えられて、一乃は躊躇する。だが、どうしても伝えたかった。
「……もう一度……」
声にすると震えている。こんな時、どう言えばいいかわからない。
「もう一度、初めからやり直すことはできない、か……?」
伺うように、一乃は白倉を見た。
白倉は一乃の言葉に驚いたように目を見開き、そして、くっと苦笑する。
「藤篠先生らしい」
くつくつと肩を震わせ笑いながら、白倉が一乃の前へと来る。
手が伸ばされ、一乃の結んだ髪の束を弄ぶように優しく掴む。
それは今までの彼の触れ方ではなかった。
「あなたはすっかり錯覚してくれた。僕が与えた快楽で、今や僕を愛しているかもしれないとさえ、思っている。違いますか?」
「違う!」
ちろりと嘲笑混じりに見られて、一乃の頭に血がのぼる。
叫んでみても、白倉は冷静なまま、冷たい笑みを口元に残していた。
「ならば、きちんと言ってください」
接吻られた時のように近く、白倉が一乃を見下ろしている。
恥ずかしくて、顔を見上げることができない。
「私、は……」
「はい」
にっこりと白倉が笑った。愉しんでいるようでさえあって、相変わらず自分は白倉に翻弄されるままなのだと一乃は思う。
だがもう、抗えない。彼にも、自分の気持ちにも。
「私は、おまえを……好きなんだ」
顎を上げて、白倉を見上げた。
白倉の手から一乃の髪の束が滑り落ちる。彼は一度瞠目して、沈黙した。
「……好き?僕を?」
予想しない答えではなかった筈なのに、白倉の様子はおかしかった。珍しく早口でそう言って、また少し黙る。
黙った後、白倉の身体が微かに震え始めた。
く、と声が漏れる。一乃はそれが何であるかわからずに、眉根を寄せた。
「あはははははは」
白倉は、奇妙な笑い方をさせた。
口を開けて、感情の籠もらない声で平淡に台詞を読み上げるような、笑い声にもならない声を短くあげて、一乃から離れる。
一乃は白倉のその明らかな嘲りだと感じられる態度に、呆然とした。
自分の言葉は、告白は、何かおかしかったのだろうか。それとも表情か。
どうしたらいいかわからないまま立ち尽くしていた一乃に白倉は、失礼、と言って目を細めて満足げに一乃を見た。
「実験は成功、ですね」
「実、験……?」
白倉は涼しい顔に戻って椅子に座ると、さっき鍵を開けた引き出しから、レポート用紙の束を取り出して机の上へと投げるようにして置く。
「僕は卒業後、心理学と脳内神経学の研究へ進む予定です。その予行演習として、先生を対象に選ばせていただきました」
ゆっくりとした仕草で、白倉は机に肘をつき、手を組んで鼻先にあてた。
いつも笑んでいた口元が隠されて、冷たい瞳だけが浮き彫りに見える。
「A-10神経系統と精神または身体快楽の作用性について」
一乃はレポートの束をちらりと横目で見て、けれど身体は凍えたように動くことができない。
白倉の言葉は半分も耳に入ってはこなかった。
「先生、おつきあいいただきありがとうございました」
恭しく言うと、動かなくなった一乃を見て、白倉は小首を傾げて切なそうに微笑む。
「そんな顔、なさらないでください。……もしこれが実験ではなく真実、僕とあなたが思いを通 じたとしてどうなるものでしょう。共に駆け落ちでも、心中でもしましょうか」
何かを責めるように言った白倉に、一乃はようやく身体の向きを白倉へと向けた。白倉は寂しく微笑って、かすかに首を振る。
「否、僕は白倉の家を、あなたは藤篠を棄てることなどできない。違いますか?」
――その通りだな。そう言葉にしてやりたいのに、声が出ない。
代わりに唇が紡いだ言葉は、無意識のものだった。
「全部……嘘だったのか」
ぽつりと、呟くように言った。
体中に力が入らない。表情すらうまく作れない。 静かな濃淡のない声が、自分の口からただ漏れている。
「私を好きだと言ったのも、全部」
悲しくすらない。心は空虚だった。
白倉はなにも答えずに、一乃を静かに見た。
笑いもせず、眉を顰めることもなく、帯緑に澄む瞳を眩しげに一乃に向けながら、ただ微かに微笑んで。
しばしの静寂が包んだ生徒会長室を、スピーカーからのチャイムがそれを破り、終幕を告げる鐘を響かせる。
「ああ、12時だ……」
感嘆のようにしみじみと、白倉はスピーカーの方を遠く見やって、微笑みすらもう作ることなく言った。
その言葉だけで、一乃には充分だった。
なにかにつけ童話に例えてきた彼の言葉のその意味を、理解できないほど一乃は愚かではない。
――彼に、自分にかけられていた魔法は、とけてしまったのだ。
ここに立っているのは、何も変わらない地味な灰色の衣装をつけた、単なる教師。そして、もう少女ではない女。
白倉は時計を遠く見やって一乃を見ることはなかった。
一乃はゆっくりと踵を返した。
ヒールが絨毯に沈んで足を取られかける。だがこの靴をここに忘れていくことは、一乃にはできない。
「お見合い、されるそうですね」
ドアノブに手をかけた一乃に、白倉の声が近く聞こえる。
顔をあげれば白倉はいつのまにかすぐ背後に立っていて、ああやはり、彼はどうしようもなく美しいのだと、一乃は顔を切なく歪ませる。
「私は……私はお前となら……っ」
張り裂けそうな感情を振り返って叫びかけた一乃の背が、突然、ダンと重厚な扉に押しつけられる。
触れたのは白倉の唇で、それはさっきの二度の接吻よりずっと激しく、憎しみにも似て一乃の唇を奪っていった。
「先生」
呆然としたまま白倉を見上げる。扉に押しつけられていた腕が離れた。
白倉は眉を顰めて、けれど穏やかに微笑んでいた。
扉が開く。一乃の身体が傾いて、会議室へ続く小廊下へ倒れていく。
「お幸せに」
微笑みを残して、扉は閉められた。
もう開かないそれを床に倒れたまま見上げて、一乃は泣き叫びそうな自分と必死で闘う。
すがることはできない。もう自分は、少女ではないのだから。
鼻の奥が痛い。抑えることなく本当は泣いてしまいたい。だがそれをしたら、何かが負ける。負けてしまう。
悲しみでも怒りでも屈辱でもない感情が暴れだしそうだ。
それをいま触れられたばかりの唇で強く強く噛み殺す。
一乃は身体を起こした。ふと思い出したことがあった。
――行幸、お前の予測ははずれだ。白倉も嘘をつくことがある。
そう思って、唇を自嘲の悲しい笑みに歪ませた。
愛などない。
白倉と自分の間に、愛などなかった。あったのは、あの身体が与えた快楽だけだ。それを脳が錯覚した。ただ、それだけの話。
立ち上がり、背筋を伸ばす。握りしめた手の中で、小さなデジタルビデオテープがミシリと軋んだ。
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