呉ノ朱

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  愛などない
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朝の校内はどことなく爽やかで、窓からの風は夏の匂いが濃くなっていた。
壁には次期選挙の告示と立候補者のポスターがあった。そこに行幸の姿を見つけて、一乃は目を止める。

白倉が言っていたように、次期会長はおそらく行幸が当選するだろう。そうなれば行幸の元、新体制となるこの学園の頂点から白倉は退く。
ただの六学年の生徒に戻り、彼の言葉のように生徒会顧問の自分と彼の関係は今より随分と希薄なものに変わってゆくだろう。
やがて秋が来る。大学受験を控え、授業カリキュラムは大幅に変わる。必修でもない自分の日本史の授業を彼が受けることもなくなる。
冬が来て……年が明ければ六学年の生徒の姿はこの学園から消える。三月には卒業……白倉はもう一乃の生徒では、なくなる。
ぞくりと、一乃の身体を悪寒のようなものが突き抜けていった。
いなくなってしまうのだ。この学園から、彼は。
生徒会顧問として白倉と密接に接するようになってから、あたりまえのようにそこにいた、鮮やかで疎ましくさえあった彼がその存在を消す。
……それは一乃にとって、喜ばしいことではなかったか。

一乃は窓の外を見やった。
陽射しは強く、校舎の影を色濃く地面に落としている。
強い光は、強い影を生むのだ。
白倉という存在は一乃にとって、光だった。
見上げれば夏の顔をした太陽はあまりにも強い光で、まともに見れば目が眩んだ。視界は反動で暗くなり、しばらく黒い世界が一乃を覆う。
一乃は一人、廊下に立ち竦んでいた。
本当はずっと前からわかっていた気がする。
疎ましく思えるほどに白倉に強く惹かれていた。けれど見れば目が眩む。一乃の目は奪われ、黒くなった世界にはもう白倉しか映らなくなる。
……けれどそんな自分は許せなかった。認めたくなかった。
だからこそ必死にこの恋を、理性と自意識の中に押し殺していたのだと。






「では、各立候補者演説、並びに応援演説を……」
迎えた次期生徒会選挙当日、講堂の壇上にずらりと並んだ立候補者たちが緊張した面持ちでマイクへ進んでいくのを、壇上脇のカーテンの隅から一乃は見やった。
その中に行幸と、十巴の姿を見つける。
行幸は白倉とはまた違った種類の王者の風格を備えて堂々たるものだったが、応援演説の十巴はそわそわと落ち着かなくしている。
時折、隣の行幸がその十巴を気遣うように、声をかけては二人微笑んだ。
彼らは恋人同士ではなかったが、幼い頃からの、行幸の十巴に対する思いを一乃だけは知っていた。
眩しかった。
少年少女らしい、瑞々しい恋愛の姿がそこにはあって、一乃は目を細めて胸元を押さえる。
「そんなに心配ですか?」
ふっと背後からかけられた囁きの声に、一乃の心臓が跳ね上がった。
振り向けば、からかうような白倉の視線がある。
彼もまた、眩しい人だ。
「黒崎くんなら何も問題ないでしょう。藤篠先生にそんなふうに気遣われるなんて……妬けてしまいます」
「ち、違……」
白倉は一乃の視線を誤解した。しなくても良いはずの弁解をしようと彼を見て、頬にさっと朱がさした。
そっと肩に手が乗る。その体温が一乃を緊張させた。
「声を立てないで。ここは死角ですが、騒げば誰かに気づかれますよ」
白倉がひそやかに囁いて、ステージと袖とを分けているカーテンを寄せた。
二人きりしかいない、講堂の生徒からも舞台上の生徒からも死角になっている薄暗い袖の、この場所を更に隠すように、ドレープのカーテンで身体を巻かれる。
「……っ!」
白倉の腕が、一乃の腰を抱いた。
正面から強く抱きしめられて、額に白倉の唇が当たる。
鼓動はおそらく触れあった胸から白倉に悟られてしまっただろう。
「白、倉……」
「しっ、静かに」
唇の前で人差し指を立ててみせた白倉は微笑んで、そうしてその指を一乃の顎に添えた。
――唇が。
白倉の唇が、一乃の唇にあてられる。
びくりと背筋が伸びる。その背に白倉の腕がある。
人の唇は、こんなにも柔らかいのだと一乃は初めて知った。
軽く触れたそれが離れるまでのたった数秒は、無限のようにも感じられ、白倉の唇が失われても一乃は夢から醒めない。
「…………」
風邪をひいたように顔が熱い。喉はからからに渇いている。
すぐ目の前の白倉がにっこりと笑って、片手で一乃の眼鏡を外した。
「大好きです」
羞恥に思わず声をあげかけた一乃の唇を、白倉は再び塞いだ。
今度はさっきのように優しいものではなく、激しく、貪るように白倉の薄いそれが一乃を翻弄する。
「……っは、……」
片腕で硬直した身体を抱きしめられながら、白倉の唇が、舌が一乃を震わせている。
耳の奥には、舞台上で演説する生徒の声。
講堂には全学年生徒と、教師達が集まっている。
その彼らの視線が向けられているであろう舞台のこの片隅で、生徒に抱きしめられ、唇を奪われている、教師の自分。
だが一乃には、何もかもがどうでも良いとさえ思えた。
数日後に控えたあの見合いの話も、いまここが何処であるかも、この身体に触れている逞しい腕が生徒のものであることも、そして、その舌に拙くも懸命に応えている自分が彼の教師であることも。
総てがおぼろげで、触れてくる舌の甘さだけがリアルだった。
「……っ、はぁ……」
ようやく解放されて、腕が離れていく。
一乃は冷たい板敷きの床に座りこんだ。もう立つことができなかった。
カーテンがするりと元の位置へと戻ってゆく。
白倉は背筋を伸ばしたまま、笑顔で一度ちらりと一乃を見ると、舞台の方へと颯爽と歩いていった。
「それでは、現生徒会の白倉邑生会長から……」
床に座ったままで、一乃は彼の姿を追う。
その姿が少し霞んでいることに気づいて、一乃は顔に手をあてた。
眼鏡がない。
元々さほど悪かったわけでもなく、白倉の姿ははっきりと一乃の視界に映っている。
彼は、一乃の眼鏡をかけていた。
男でも違和感のない四角めのノンフレームのものだったが、生徒達は見たことのない白倉の眼鏡姿に色めいているのがざわめきからわかる。
それが一乃のものだとは、気づいた様子もなく。
「現会長の白倉です。この鷺ノ宮学園の生徒会長として三年の任期を……」
一乃は毅然と背筋を伸ばし、眼下の生徒達に向かって演説を続ける白倉をただ見ていた。
そこにもう、教師としての自分はいなかった。
憧憬の瞳で白倉を見上げているであろう女子生徒たちと同じ顔をしているだろう、と、一乃は思う。
――敵わない。
頬を水滴が伝った。それが涙だと気づくまで、一乃は随分と時間を要した。
ああ、できるなら自分も、講堂の椅子に座り、彼を見上げていたかった。
彼と同じ制服を着て、廊下ですれ違うことに胸を弾ませ、白百合の君と呼び、ただただ純粋で……。
ぱたぱたと、床板に涙が落ちていく。
嗚咽を殺しながら、顔を覆った。
ガタン、と遠くで椅子が倒れる音がする。足音が近づいてくる。
白倉のマイクの声が途切れ、ざわめきが聞こえる。
顔を上げれば、十巴がいた。
「イチ姉、どうした?具合でも悪いのか?」
「…………っ」
一乃は首を振った。止まらない涙が散る。
十巴の自分より張りのある少女の手が、背中をさする。
「だ、大丈夫……だから」
手のひらで顔を拭って、十巴の腕を押しとどめる。
顔をあげれば、舞台中央の白倉が、一乃を見ていた。
白倉は、笑っていなかった。
頭の奥がすうと冷えていく。
眉を顰め、一乃にすら一度も見せなかった、完全に笑顔ではない白倉。
その表情が意味しているのは、失望だった。
「大丈夫だから、戻ってくれ……十巴」
一乃は膝をついて立ち上がる。涙は止まっていたが、啜りあげる音は続いている。
十巴は滅多に見ることのない一乃の涙を心配しながら、舞台上の自分の席へと戻っていった。
白倉の演説は続いていた。
彼はまた元の笑顔のままで、けれどもう決して、一乃を見ない。
その顔に、一乃の眼鏡はなかった。
制服の胸ポケットが膨らんでいる。そこにしまわれているのだろう。
それは一乃に対しての興味を、彼が失ったのだと示されているように思えて、一乃は背を向けた。
見ていることができなかった。
――彼は恋に泣く女になど、興味がないのだ。
一乃は、けれど、わかってしまった。
生徒でもなく教師でもなく、ただ女として、そして少女の恋として、白倉を愛してしまったことを。
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