呉ノ朱

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  愛などない
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「あ、おかえりイチ姉」
階段のところですれ違った十巴に返事を返すことなく、一乃はそのままバスルームへと向かった。
「イチ姉?おーい……」
「どうしたの?」
廊下を振り向いていつもとは明らかに様子の違う一乃を見やった十巴に、リビングから百花が覗く。
「さあ。生理じゃねーの?」
十巴は一度肩を竦めて、リビングへと戻った。フリルのついたエプロンをつけたまま、揚げ物をしていた百花もそれに続く。
そんな妹たちの声は、バスルームに閉じこもった一乃の耳には届かなかった。


「食事は結構です」
そう母親と百花に短く告げて、風呂上がりの一乃はそのまま自室へと駆け足で上がる。
ビニール袋の中に、今日着ていた総ての服を詰め込んで、固く縛った。いっそ燃やしてしまいたい衝動に駆られるが、それは目立つためできない。
一乃はベッドの上で膝を抱えていた。
さっきまでのことを思い起こせば、羞恥に気が違ってしまいそうだった。
――白倉邑生。
こんなにも震えているのは、だが、彼が恐ろしいばかりではなかった。
彼に、自分のあんな姿を見られた。よりによって、あの白倉に。
白倉に触れられ、白倉の目の前で絶頂に達し、失禁までした。
教師として、女としてもあるまじき姿を見せた。
一乃は強く、自分の肩を抱く。
と、ドアがドンドン、と大きくノックされる。
こんな乱暴なノックをする者はこの家にはただ一人しかいない。
「イチ姉、入るよ」
返事をしたわけでもないのにドアを開け、つかつかとベッドのところまで来た十巴は、一乃の許しを待つことなく隣に座る。
「……なんだ?」
「なんだ、はイチ姉の方だろ。なんかあったのか?」
ショートヘアが揺れて、きりりとした眉毛の強い瞳の妹が、自分をまっすぐに見る。
一乃は眉を微かに上げて、口を開きかけて、やめた。
「いや。お前には関係ない」
そう言うと、十巴は露骨におもしろくない顔をさせて、一乃を睨む。
「いっつもそうやって壁作って。あたしそんなに頼りないか?妹だろ!?」
ベッドにバン、と手をついて頬を膨らませる、この母親違いの妹はいつも土足でだが真っ直ぐに一乃の心の中に入ってくる。それだけに愛おしい。
一乃はようやくくすりと微笑む。家族以外には、ほとんど向けることのない笑み。
「壁を作っているわけではないよ。教師としての悩みごとを、生徒のお前に話すわけにはいかないだろうが」
手を伸ばして、十巴の短い髪を撫でてやる。
十歳も違うこの妹は、猫が撫でられる時の仕草をして、けれどまだ心配げに一乃を見上げていた。
「そういえば十巴、風紀委員だったな」
風紀委員会。生徒会直属の、いわば学園内の警察だ。学園内の規律を取り締まる他に、何かと狙われやすい生徒会役員の警護も行っている。
十巴の顔がぱっと輝いた。
「なに?なんかシメて欲しいやつでもいんの?」
言葉は悪かったが、人に頼られることを生き甲斐とする彼女らしく、生き生きとした表情をさせて十巴が向く。
だが一乃は、いつもならば諫めるところをそれをせず、真面目な顔をする。
「お前から見た、生徒会長ってどうだ?」
「白倉会長……?」
期待とは違う一乃の言葉に、十巴は瞬時にがっかりとしたようだった。
「そりゃー最高でしょ。頭いいし顔もいいし性格もいいし。あの人を嫌いな人って学園内にいないんじゃないかってくらい」
いわば風紀委員会は生徒会親衛隊だ。その最も近しい存在である風紀委員の十巴にすらこの言葉を言わせる白倉は、さっきまで一乃と対峙していた彼とはあまりにも違いすぎる。
「双子……なんてことはないよな」
呟いて、一乃は自分の馬鹿な考えを笑いたくなった。
「会長がどうかした?」
「いや、生徒会顧問として聞いてみたかっただけだ」
先程の話を十巴に話したとて、このまっすぐな妹に信じてもらえるはずもなかった。十巴に限らず、学園内の誰一人として、一乃の話を信じる人間はいないだろう。
せいぜい、もてない女の戯言だと切り捨てられて終わる。
ふと、一人の顔が頭に浮かんだ。彼ならばもしや、と思ったのだ。
「十巴、悪いがお前の部屋を通らせてもらうぞ」
「え?」
風呂上がりのスウェット姿のまま一乃は立ち上がると、隣室の十巴の部屋へと行った。
そこはこれが自分と同じ作りとは信じられない程に散らかり、物で溢れかえっていたが、床に落ちているものを踏まないように慎重に窓際へと行く。
「少しは片づけたらどうだ?」
「これがベストな状態なんだよ」
十巴は一乃の忠告などまるで意に介さずに、椅子に座った。
窓際まで行って、カーテンレールの横にあるインターホンを押す。
ベランダの向こう側に見える窓の中の人物が、反応して窓を開けた。
黒崎行幸。
一乃たち姉妹とは幼馴染みにあたり、特に十巴とは親友として深いつき合いをしている、鷺ノ宮学園の生徒。
十巴の部屋のベランダは、行幸の部屋のベランダとひとつの柵を隔てて繋がるように増築されていた。そしてカーテンレール横のインターホンを押すことで、お互いを呼び出すことができるよう勝手に改造されているらしい。
まるで小学生の秘密基地ごっこのような仕掛けだが、この二人にはそれが楽しいのだろう。
……正確には、十巴の遊びに行幸がつきあってやっているというところだと、一乃にはわかってはいたのだが。
「少し行幸と話をしてくる」
ベランダへと行き、柵を乗り越えて行幸の部屋へと向かう。
「おう」
学習机に座ったままの十巴はそれを気にした風もなく手をひらひらとあげて答える。行幸は窓を開けて不思議そうに一乃を見ていた。
「イチ姉がここに来るなんて、めずらしいね」
「突然で悪い」
自室に迎え入れて、窓を閉めた行幸は黒い革張りのソファーに座るように促すと、自分は椅子に座った。
一乃は部屋を見渡す。遊び疲れて眠ってしまった十巴を迎えに何度か来たことはあったものの、そんなに慣れてはいない、弟のような行幸の部屋。
その行幸の部屋は、いまや男の匂いがした。
だが、白倉に感じたような本能的な緊張を一乃は感じない。
「で、どうしたの?」
「……おまえ、生徒会長をどう思う?」
ソファーに腰掛け、置かれたコーヒーには手をつけずに、一乃は眼鏡の向こうの行幸を見上げた。
行幸は瞬間一乃の言葉に視線を留めた後、ああ、と短く言って逸らす。その仕草に、ここに来たのは正解だった、と一乃は悟った。
「どう、っていうのは、風紀委員長としてじゃなくて、ということだろ」
「相変わらず察しが良いな」
一乃はくすりと笑った。行幸は就任した今年から、風紀委員長として常に白倉と行動を共にしている。
つまりは彼の護衛として、裏も表も知り尽くしている筈だ。
「怖い人、だな。あれだけ頭が切れて容姿も悪くなくて人柄も良い。それなのに敵が少なすぎる」
行幸の言葉は最もだった。強い光を放つ人間は、それだけ濃い影を生む。そのために風紀委員会の重要な仕事として、生徒会役員の身辺警護があるのだ。
だが生徒会顧問の一乃の耳には、白倉と他者の軋轢や彼に対する誹謗中傷の類がまるで入ってこない。
「それでいて絶対に自分の手を汚したりはしない人だろうと思うよ。天然なのか演じているのか俺にもわからないけど、あそこまで完璧な人間がいるもんか、と思う」
「そう、だな」
行幸の言葉に一乃は賛同しかねた。
自分で手を下すことがないのだとすれば、放課後の白倉の行動は異質だった。一歩間違えば、一乃が彼を告発することもできるのだ。
言葉を詰まらせた一乃を、行幸が怪訝な顔をして見る。
「なに?なんかあったの、会長と」
「そういうわけでは……、いや、お前は誤魔化せないか」
行幸もまた、あちら側の人間だった。彼は白倉よりも人間らしくはあるが、聡明で機知に長けている、別 種類の王だ。
一乃は自分自身を落ち着かせるように、一度咳払いをした。
「笑うなよ。……白倉が、その、私を好きだと……」
言葉にするうち、頬が紅潮するのが一乃自身にもわかった。
それ以外のことは話せない。だがこのことだけでも誰かに相談でもしなければ、一乃の中では整理することなどできなかった。
行幸は一度大きく目を見開いて、笑いかけて、それを抑え込む。
「い、いい趣味してるな、会長」
「笑いたければ素直に笑え」
ひきつるようにしている行幸を一乃は睨みつける。
益々顔が熱くなるのを感じた。
白倉のしたことは許せなかったが、あれでいつまでも傷ついていられるほど、一乃は少女ではいられない。
「悪い。いや、でもあの人がそう言ったなら……本当なんじゃないか?」
ひきつった笑顔から真剣な表情に戻った行幸は、指で顎のあたりをトントンと叩く。
そうしてそれを一乃に向けた。
「イチ姉、会長の一番凄いところはね、決して嘘をつかないっていうところにある」
行幸の言葉に、一乃は僅かに驚かされる。
「勿論都合の悪いことは沈黙や言い回しでうまく煙に巻くんだけどさ。嘘だけは絶対につかない。完全に有言実行な人なんだよ。その一点において、俺はあの人を信用してる」
それは行幸の言葉だからこそ、信じられた。
彼は恐らく、現在学園内で唯一白倉に匹敵できる人間だ。
けれどその言葉に、一乃はますます混乱させられた。
「……ありがとう。参考になった」
しばらく無言で思い巡らせた後、ソファーから立ち上がる。
「で、イチ姉、つきあうの?」
にやにやと笑う行幸が、ベランダに向かう一乃の背中を見ている。
ふたりきりだとつい忘れそうになるが、彼は十巴と親友でいられるような人間だ。こういう子供の悪戯心も、持ち合わせている。
一乃は拳を握りしめた。
「そんなわけあるか!私は教師で、彼は生徒だ」
「関係ないと思うけど、俺」
椅子の背もたれに寄りかかるようにして、ベランダの一乃を見やる行幸はからかうような笑顔ではなく、まるで教師が生徒に諭すような、真摯さを持っていた。
「肝要なのは、イチ姉が白倉さんを男として見れるかってとこじゃないか?……あの人とのセックスが想像できるかどうか、とかさ」
さらりと言ってのけるあたりが、行幸だった。
そういえば校内での行幸は、十巴といる時以外はいつも違う女子生徒を連れて歩いている。
「知るかっ!……今言ったこと、誰にも言うなよ」
「わかってるって。ま、頑張ってね」
顔を赤らめて叫んだ一乃は背を向ける。
口の固い行幸だから元より心配はしていなかったが、一乃はひらひらと手を振る行幸を確認のように一瞥して、十巴の部屋へと戻った。
「……イチ姉、顔真っ赤」
「五月蠅い!」
いつもと違う一乃の様子に、十巴が呆然と一乃を見やる。
思わず怒鳴ってしまって、それでもツカツカと一乃は自室へと戻っていく。
足の下で、床に散らかったCDや何やらがパキパキと音を立てたように思ったが、気にも留めなかった。
「行幸ぃ、おまえイチ姉になんかした?」
「さあな。俺のせいじゃねえよ」
開け放したベランダで十巴と行幸が交わした会話も一乃の耳には届かなかった。


自室の鍵を閉めた一乃は、そのままベッドへと俯せに倒れ込んだ。
頭の中では、いまの行幸の話と、放課後の白倉の声が重なってリフレインしている。
――あなたを愛している、ということです。
耳を疑うような言葉だった。
今日何度、白倉は自分に愛していると、好きだと口にしただろう。
――許してください。
最後に見せた白倉の後悔の思いを必死に閉じ込めたような瞳が、記憶の中で揺れる。
「黙れ!」
一人叫んで、枕に顔を沈めた。
どうしたらいいか、一乃にはわからなかった。
学校では、教科書は教えてくれなかった。
ちらりとベッドサイドの机を向けば、身支度に使っている小さい鏡が立ててある。
そこには、見慣れた地味な女がいた。
四姉妹の中で、一乃だけが母親が違う。
男勝りの十巴は、一乃と同じように父親似ですらりと背が高かったが、後妻である美しい母親の血も強く、女子生徒に崇められるほど人気が高い。
母親に生き写しの三女の百花は今年、ミス鷺ノ宮になった。姉の一乃が見ても見とれるほどに、可憐な美少女といえる。……性格はともかくとして。
末妹の千尋はまだ中学生だから、これから花開くだろう。
だからといって、一乃は妹たちと自分の容姿の差を妬むことも気に病むこともなかった。半分しか血が繋がっていないのだと意識したこともない。
少なくとも、今日までは。

殺風景な部屋の壁につくりつけられた大きな本棚には、整然と本が並んでいる。
立ち上がり、分厚い参考書と歴史書を取り出して、その奥へと手を伸ばした。そこには誰にも見つからないように隠すように、一乃の秘密がしまってある。
擦り切れた表紙の少女小説は、魔女の呪いを受けて醜く変えられた少女を、たったひとり、彼女の真の美しさに気づいた王子が救う、といった単純なラブストーリーで、今読めば稚拙で、気恥ずかしくなるような話だった。
だが、これに胸を焦がした時代が確かに自分にもあった。
……いや、今でも本当は、待っている。
少女小説を手に取りかけて、姿見に映る自分の姿にはっとした。
一乃は本棚を元に戻し、緩やかに現実に失望する。
口元は自嘲に笑んでいた。
自分に魔法などかかっていないことなど、もうわかってしまっていたではないか、と。
不意にツキン、と、微弱に疼く場所がある。白倉が触れた、蕾のあたり。
そう、一乃はもう女だった。サイズの合わないブラジャーで押し潰し続けているこの豊満な胸は、くすぐることで快楽に応えるこの身体は、一乃が大人の女であるのだと教えている。
どうしようもなく、一乃はもう女だった。
だが人に触れられることは、自分でしてきたこととはあまりにも違っていた。あれは陵辱だ。脅迫であり、暴力のはずだった。
にも関わらず、白倉の愛の言葉の方がずっと、一乃の心を震わせていた。
――きっかけが、快楽からだとしても一向に構わないと思っています。
鼓膜のすぐ近くに、白倉の声が蘇る。
「愛したりなど……しない」
一乃は必死に自分の鼓動を落ち着かせようとした。
それでも白倉の声は、あの視線は頭から消えることはなく、一乃は赴任して初めて、徹夜で翌朝を迎えることとなってしまった。
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